世の中にはいろいろなフェチがあって、これはこれで楽しいものである。「LEGS」なんて、足フェチの雑誌があり、脚のきれいなお姉さまたちがその美を競っているのだが、同時に爪先を口にくわえている写真も必ずあって、「この匂いがたまらないの」なんて添え書きがある。清濁混在、臭いという微妙な要素の上にナルシシズムまで加わった玄妙な世界を構築している。なかなかに奥深い。そして最近気づいたのだが、僕はどうやら腹フェチであるらしい。
腹フェチとは何ぞや。つまり女性の平べったいおなかにあまり魅力を感じないのですな。まさか体重240キログラムの八段腹というのはダメだけど、おなかだけがぽっこりと出ていて二段三段くらいならOKらしいのだ。
これ、自分でもなぜだか分析できないのだが、かつて阿刀田高だかの「アラビアン・ナイト」関連の小説かエッセイに、そんなおなか礼賛の記述があって、それに影響を受けたような気がする。ある美女がベッドに横たわるとその豊かなおなかがあたかも大波のように波打ち、男はくらくらしたというような内容に僕はくらくらしたよ。
映画「マディソン郡の橋」に、メリル・ストリープが精いっぱいのお洒落をしてドレスを着るシーンがある。原作では彼女が非常に美しく描写されている場面だ。ところが映画は・・・・どう考えてもストリープ、不恰好なのだ。一方のイーストウッド、その姿を見て美しさのあまり息を呑む、というシーン。
僕もきれいだと感じた。肉体労働で鍛えられた骨太の農婦の必死の、しかも何となくズレためかしこみが、彼女によって巧みに表現されていた。しかし彼女はこんなに不細工な体型の女優だったか?「激流」で披露されたマッチョな(?)肉体美はなんだったのか?
わざとそんな風に撮ったのだろう。監督イーストウッドのストーリー・テラーとしての目の確かさは、そんなところに行き届いている。ひたむきさと恥じらいは、女性の美の本質をかたちづくる要素のひとつだと思う。
はるか昔の映画に鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」がある。大楠道代が「腐りかけがおいしいの」と水蜜桃をなめるシーンにぎょっとした。もちろん性的な隠喩。ただ僕の腹フェチはこういう深遠な官能性の上に立脚するものではなくって、無邪気なハラそれ自体、とでも呼ぶべきものにつながっているようだ。
映画の中にストリープ自身がおなかを見せるシーンはなかったと思うが、ドレスをまとっても、どっしりした腰まわりは無防備で邪気がなく、僕はイーストウッドがなぜ彼女に魅かれたか納得した。
僕のリサーチによると、どうもたいていの男がペタンとしたおなかを好むようなのだけど、僕って変?しかしながら、テイストの間口が広いことだけは確かだぜ。
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