前回、ドラキュラのことを書いていて、違う読み方も出来ることに気が付いた。ドラキュラと犠牲者の関係が互酬的であることだ。
少し詳しく書こう。彼らの関係が互酬的であるとはつまり、搾取的な関係がないということだ。なぜならドラキュラの欲望は、犠牲者に必ず転移するからである(分かりやすくするため、ここでは男性犠牲者のことは忘れる)。
犠牲者は必ず誘惑者となり、ドラキュラの出現を待ち望む。もちろんドラキュラは、相手から一方的に血液を奪うわけだから、略奪者であるのだけど、クリストファー・リーがよく演じたドラキュラなども、犠牲者の誘惑に会って目を充血させて噛みつくシーンなど、ときになぜかこっけいな印象を抱かせるときさえある。
犠牲者の顔はときに恍惚に輝き、これはドラキュラの生存(?)に不可欠な血液を与える悦び、あるいは血液を奪われることで彼を支配する征服欲の充実とも言えよう。また、犠牲者が最終的に不死を得ることを考えれば、どの点をとっても、二人の関係は互酬的だと言わざるをえない。
ひるがえって、人間男女の世界。僕は決してフェミニズムには明るくないが、男による女性からの性の搾取という観点は、今も一大テーマとして有効だと思う。夫が一方的に妻から性的快楽を得て、彼女の本当のところには無頓着なんて話題は、女性週刊誌などにゴマンと載っている。もちろん、結婚制度にしがみつく女性のほうが、なんて反論もあるが、背景にある社会事情が・・・とイタチごっこ。快楽の度合いを比べれば、男のそれに対して女性の快楽は十倍、いやきっと百倍、搾取されているのはむしろ男の方で・・・なんて、おっとこれは言わぬが花か。
ともかく、そうしてコト終わり、妊娠でもするものなら、その肉体的負担は女性が一方的に引き受けざるを得ないのは事実。あるいは、特に子供が欲しいわけでもない女性に、月経がなかなか来ないときの恐怖というのは、特に彼女が未婚の場合、大変なものであるらしい。「性の搾取」という言葉も、それなりに説得力があるんだよなあ。
さてドラキュラと犠牲者の間に愛はあるのか。
僕には、彼らの間に人間的な意味での愛が成り立つとは思えない。
「愛とは奪うことだ」という言葉があるが、人間界の愛というのは、二人の関係における闘争の中のひずみのようなものから生まれるものではないかという気がするからだ。つまりドラキュラとその犠牲者のように互酬的な関係は、何というか、欲望が相互に補完しあうだけで、広がりを持たないように思える。与え、奪い、支配する、あるいはされる。この均衡が微妙なところに人間の愛というのが成り立つと思うのだけど。
ところで今回、フェミニズム批判ではないよ、念のため。
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9/24/2009
ドラキュラ①
友達だったフレンチの小娘が言った。「欲望が無ければ、愛は成り立たないわ。」
名言だと思った。これだから、フランスという国は侮れない。奥が深い。「愛が無ければ、欲望は生まれない」ではないのだ。では逆に、「欲望があれば愛は成り立つか」というと、疑問のあるところだし、また「愛があれば欲望は生まれるか」といえば、微妙なところであろう。いずれにせよ、まず欲望ありき、である。
ブラム・ストーカーが創作し、その後名優クリストファー・リーなどの怪演によって広く知られるところとなった吸血鬼ドラキュラは、純粋欲望とも言うべき存在である。犠牲者ののどに毒牙を突き立てて、血を啜りたい、という欲望である。
吸血こうもりや蛭といった、吸血行為そのものが自己保存の手段である生物が現実に存在することを僕たちは知っていて、やはりおぞましいものとして認識するわけだが、それらとドラキュラを分かつのは、そこにエロティシズムがあるかないかだろう。エロティシズムとは、完全に人間のものだ。そういった点で、ドラキュラは極めて人間的である。
では、ドラキュラのエロティシズムとは、果たして何だろう。①人間の形をしたものが、人間の生血を啜るという背徳性 ②犠牲者をやがては死に追いやる、という生への反逆。と思いつくが、この二点、猟奇的ではあるが、必ずしもエロティックではない。僕は、③犠牲者-特に女性-が、いったん血を吸われるや、積極的にドラキュラを欲する誘惑者となること-が最重要だと思う。ドラキュラから、欲望が転移したのだ。
初めて作品が世に出た時代、女性は、自ら欲望する存在とはみなされていなかったはずだ。言い換えれば、欲望を持つことを禁じられていた女性が、犠牲者となると同時に次には誘惑者に変身する点が、当時の良俗に対する挑戦であり、またドラキュラのストーリーの持つエロティシズムであったに違いない。だから、女性も実は積極的に欲望する存在である、と広く認知された現代のような時代、このストーリーが、そのエロティシズムの光をいくぶんか失わざるを得ないのは当然のことだと思う。
やや古い映画になるが、コッポラ監督の描いたドラキュラが、失った妻をひたすら慕い続ける純愛ストーリーとなったのも無理はない。格調のある作品ではあったけれども、ドラキュラの本質は、むしろかつてハマー・フィルムなどが制作したB級C級映画にこそ、よりよく表現されていたと思う。
しかしながら、ドラキュラとその犠牲者の間には愛が成り立つのかなぁ。例の小娘に尋ねてみたいところだけれど。ところで、この娘とは「友達だった」と書いた。もちろん友達以上にはなれなかったからだし、そして今は友達ですらないからだ。
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名言だと思った。これだから、フランスという国は侮れない。奥が深い。「愛が無ければ、欲望は生まれない」ではないのだ。では逆に、「欲望があれば愛は成り立つか」というと、疑問のあるところだし、また「愛があれば欲望は生まれるか」といえば、微妙なところであろう。いずれにせよ、まず欲望ありき、である。
ブラム・ストーカーが創作し、その後名優クリストファー・リーなどの怪演によって広く知られるところとなった吸血鬼ドラキュラは、純粋欲望とも言うべき存在である。犠牲者ののどに毒牙を突き立てて、血を啜りたい、という欲望である。
吸血こうもりや蛭といった、吸血行為そのものが自己保存の手段である生物が現実に存在することを僕たちは知っていて、やはりおぞましいものとして認識するわけだが、それらとドラキュラを分かつのは、そこにエロティシズムがあるかないかだろう。エロティシズムとは、完全に人間のものだ。そういった点で、ドラキュラは極めて人間的である。
では、ドラキュラのエロティシズムとは、果たして何だろう。①人間の形をしたものが、人間の生血を啜るという背徳性 ②犠牲者をやがては死に追いやる、という生への反逆。と思いつくが、この二点、猟奇的ではあるが、必ずしもエロティックではない。僕は、③犠牲者-特に女性-が、いったん血を吸われるや、積極的にドラキュラを欲する誘惑者となること-が最重要だと思う。ドラキュラから、欲望が転移したのだ。
初めて作品が世に出た時代、女性は、自ら欲望する存在とはみなされていなかったはずだ。言い換えれば、欲望を持つことを禁じられていた女性が、犠牲者となると同時に次には誘惑者に変身する点が、当時の良俗に対する挑戦であり、またドラキュラのストーリーの持つエロティシズムであったに違いない。だから、女性も実は積極的に欲望する存在である、と広く認知された現代のような時代、このストーリーが、そのエロティシズムの光をいくぶんか失わざるを得ないのは当然のことだと思う。
やや古い映画になるが、コッポラ監督の描いたドラキュラが、失った妻をひたすら慕い続ける純愛ストーリーとなったのも無理はない。格調のある作品ではあったけれども、ドラキュラの本質は、むしろかつてハマー・フィルムなどが制作したB級C級映画にこそ、よりよく表現されていたと思う。
しかしながら、ドラキュラとその犠牲者の間には愛が成り立つのかなぁ。例の小娘に尋ねてみたいところだけれど。ところで、この娘とは「友達だった」と書いた。もちろん友達以上にはなれなかったからだし、そして今は友達ですらないからだ。
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9/14/2009
キャンディ・キャンディ
ずっと気になっていたのだ。放映後二十年以上も経とうというのに。二人の年の差だ。
「キャンディ・キャンディ」は、アメリカとイギリスを主な舞台とした大河ドラマだ。紙面の制限上、詳しくストーリーを述べる余裕がないので、今回は分かる人にしか分からないが、勘弁していただきたい。ナニ、どうせヨタ話である。それでも一言で言えば、「足長おじさん」と「君の名は」をミックスしたようなメロドラマなのですな。
僕なんぞ、毎週見ていましたよ。初恋の相手アンソニーが、落馬が元で死んでしまうところなど、涙なくしては語れない。テリーとの徹底的なすれ違いは、思わず「ほら、キャンディ、テリーはすぐ後ろにいるよ!」と叫びたいほどだった。
あれほど盛り上がったストーリーなのに、最後はなんだか尻切れトンボ。どうやらキャンディはアルバートさん=ウィリアム大おじ様と結ばれるような感じなのだが。テレビでは最終回、なんと登場人物皆でのティーパーティでお茶を濁してしまったのだ。何かとってつけたような、文脈にそぐわない結末だった。そしてまたいかにアルバートさんが「丘の上の王子様」だったとはいえ、この二人の結びつきは、中学の一番人気の女の子を高校生に取られたような、いや、大学生か、社会人か。そんな口惜しさとともに、何かざらっとした後味が残ったのである。
キャンディとアンソニーの恋は淡いもので当然肉体関係はない。テリーとのからみも性的交渉をイメージさせるシーンはなかったと思う。
ここで、キャンディは孤児だった、という背景が気になる。つまり、彼女が無意識的にせよ求めていたのは、アンソニーのような優しいが女性的な男ではなく、またテリーのように行動力には富むが包容力に欠ける男でもなく、実は父のような男だったのではないか。若き「恋人」たちとの悲恋は、実は彼女自身が招きよせていたものではなかったか。
アルバートさんとの関係が結局ムニャムニャという感じになったのは、ハッキリ描いた場合、当然そのあとに続くと予想される二人の性的結合のイメージが、やはりテレビ枠では収まりきれないものだったからだと思う。それは直接に、父との性的関係を暗示するものだからだ。
最終回のティーパーティは、自分たちが描いているものが、実はインセスト・タブーへの侵犯であると気づいた制作者たちの苦肉の策であろう。原作ではもう少し、踏み込んでいたように思う。
しかし、こうも考える。あのアルバートさんに、果たしてベッドの上でキャンディを愛撫することが可能だろうか?すると-。
ファーザー・コンプレックスを抱えたまま肉体的に成熟したキャンディは、その後どこをさまよったのだろうか。
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「キャンディ・キャンディ」は、アメリカとイギリスを主な舞台とした大河ドラマだ。紙面の制限上、詳しくストーリーを述べる余裕がないので、今回は分かる人にしか分からないが、勘弁していただきたい。ナニ、どうせヨタ話である。それでも一言で言えば、「足長おじさん」と「君の名は」をミックスしたようなメロドラマなのですな。
僕なんぞ、毎週見ていましたよ。初恋の相手アンソニーが、落馬が元で死んでしまうところなど、涙なくしては語れない。テリーとの徹底的なすれ違いは、思わず「ほら、キャンディ、テリーはすぐ後ろにいるよ!」と叫びたいほどだった。
あれほど盛り上がったストーリーなのに、最後はなんだか尻切れトンボ。どうやらキャンディはアルバートさん=ウィリアム大おじ様と結ばれるような感じなのだが。テレビでは最終回、なんと登場人物皆でのティーパーティでお茶を濁してしまったのだ。何かとってつけたような、文脈にそぐわない結末だった。そしてまたいかにアルバートさんが「丘の上の王子様」だったとはいえ、この二人の結びつきは、中学の一番人気の女の子を高校生に取られたような、いや、大学生か、社会人か。そんな口惜しさとともに、何かざらっとした後味が残ったのである。
キャンディとアンソニーの恋は淡いもので当然肉体関係はない。テリーとのからみも性的交渉をイメージさせるシーンはなかったと思う。
ここで、キャンディは孤児だった、という背景が気になる。つまり、彼女が無意識的にせよ求めていたのは、アンソニーのような優しいが女性的な男ではなく、またテリーのように行動力には富むが包容力に欠ける男でもなく、実は父のような男だったのではないか。若き「恋人」たちとの悲恋は、実は彼女自身が招きよせていたものではなかったか。
アルバートさんとの関係が結局ムニャムニャという感じになったのは、ハッキリ描いた場合、当然そのあとに続くと予想される二人の性的結合のイメージが、やはりテレビ枠では収まりきれないものだったからだと思う。それは直接に、父との性的関係を暗示するものだからだ。
最終回のティーパーティは、自分たちが描いているものが、実はインセスト・タブーへの侵犯であると気づいた制作者たちの苦肉の策であろう。原作ではもう少し、踏み込んでいたように思う。
しかし、こうも考える。あのアルバートさんに、果たしてベッドの上でキャンディを愛撫することが可能だろうか?すると-。
ファーザー・コンプレックスを抱えたまま肉体的に成熟したキャンディは、その後どこをさまよったのだろうか。
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9/08/2009
エリザベスとメアリー②
メアリー・スチュアートが君臨した時代のスコットランドの歴史は、他の時代に際立って面白い。同時期のイングランドに、エリザベス一世という強烈な個性があったことも一因であろう。二人の女性の人生は、ほぼ対極にあるし、イメージもまたしかり。
メアリーもエリザベスも、いくつかの肖像画が今に残されているが、この二人の、肖像画から受ける印象は、まったく違う。
メアリーの肖像は、どれもこれも美しい、それは気品に満ちた「素」の美しさだ。余計な飾りがない。フランス宮廷で身につけた、洗練されたマナー・教養。そういったものを絵の中から感じ取ることが出来る。要するに、美しい女性がそこに在るのだ。
それに対し、女王エリザベスの肖像画から受ける印象は、盟主としての「威厳」あるいは「威圧感」である。女性ではなく、君主がいる。
民衆に追われてイングランドに亡命してきたメアリーの、長い幽閉生活ののちの処刑は、結果として、まさにイングランドの存亡の危機を呼んだ。スペインの無敵艦隊の襲来である。カトリック勢力にとって、メアリーは、いわば失地回復のための切り札だったからだ。これを乗り切ったのちのイングランドには、「エリザベス信仰」といえる現象が起こったという。
女王エリザベスの肖像から感じるのは、まさしく、そういった超越を目指す意地ともいうべきものだ。彼女の肖像は自己完結している。
再びメアリーの肖像に目を転じると、気品と同時に、そのはかなげな風情から来るのだろうか、彼女の隣に、豪快で自信にあふれた男を立たせたいような誘惑に駆られるのは、僕だけだろうか。
肖像画で見る限り、ボズウェルというのは、そういう印象を与える男だ。
自国民に石をもって追われながらメアリーと別れた彼は、各地を転戦、最後はデンマークの牢獄で狂死する。ボズウェルに、メアリーへの愛情がひとかけらでもあったかどうかは疑わしい。常に冷静だとか野心的だとか、そういった言葉で描かれる男なのだ。メアリーは、そんな男への恋にすべてを賭けて狂ったのだ。
近年の映画「エリザベス」は良く出来た映画だった。そこに描かれた彼女は、一途な、自分の義務に忠実な強い人間だった。しかし、恋に狂える女ではなかった。
女には二つある。恋に狂える女と、恋に狂わない女と。どちらも能力なのだ。一方、ひょっとすると、すべての男は、女を恋に狂わせることが出来るのかもしれない。でも、その女が目の前に開いた闇の中、どこまでも転戦できる男と逃げ出す男と、男にはその二つのタイプしかない。
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メアリーもエリザベスも、いくつかの肖像画が今に残されているが、この二人の、肖像画から受ける印象は、まったく違う。
メアリーの肖像は、どれもこれも美しい、それは気品に満ちた「素」の美しさだ。余計な飾りがない。フランス宮廷で身につけた、洗練されたマナー・教養。そういったものを絵の中から感じ取ることが出来る。要するに、美しい女性がそこに在るのだ。
それに対し、女王エリザベスの肖像画から受ける印象は、盟主としての「威厳」あるいは「威圧感」である。女性ではなく、君主がいる。
民衆に追われてイングランドに亡命してきたメアリーの、長い幽閉生活ののちの処刑は、結果として、まさにイングランドの存亡の危機を呼んだ。スペインの無敵艦隊の襲来である。カトリック勢力にとって、メアリーは、いわば失地回復のための切り札だったからだ。これを乗り切ったのちのイングランドには、「エリザベス信仰」といえる現象が起こったという。
女王エリザベスの肖像から感じるのは、まさしく、そういった超越を目指す意地ともいうべきものだ。彼女の肖像は自己完結している。
再びメアリーの肖像に目を転じると、気品と同時に、そのはかなげな風情から来るのだろうか、彼女の隣に、豪快で自信にあふれた男を立たせたいような誘惑に駆られるのは、僕だけだろうか。
肖像画で見る限り、ボズウェルというのは、そういう印象を与える男だ。
自国民に石をもって追われながらメアリーと別れた彼は、各地を転戦、最後はデンマークの牢獄で狂死する。ボズウェルに、メアリーへの愛情がひとかけらでもあったかどうかは疑わしい。常に冷静だとか野心的だとか、そういった言葉で描かれる男なのだ。メアリーは、そんな男への恋にすべてを賭けて狂ったのだ。
近年の映画「エリザベス」は良く出来た映画だった。そこに描かれた彼女は、一途な、自分の義務に忠実な強い人間だった。しかし、恋に狂える女ではなかった。
女には二つある。恋に狂える女と、恋に狂わない女と。どちらも能力なのだ。一方、ひょっとすると、すべての男は、女を恋に狂わせることが出来るのかもしれない。でも、その女が目の前に開いた闇の中、どこまでも転戦できる男と逃げ出す男と、男にはその二つのタイプしかない。
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9/03/2009
エリザベスとメアりー①
世の中には、おいおい、ちょっと待てよと言いたくなるような恋があるもので、このケースもその類に入る。メアリー・クイーン・オブ・スコッツである。
メアリー・スチュアート。同時期にイングランドの女王であったエリザベス1世と、永遠のライバルのように言われるが、統治者として見たとき、残念ながらメアリーに歩はない。しかし彼女の波乱万丈な人生は、人々の記憶にとどめられるべきものだと思う。
メアリーは、生後すぐスコットランド女王に即位したのち六歳でフランス皇太子と婚約、彼の地に送られる。やがてフランス宮廷の洗練された文化を身につけ、その美貌と才能に対する賛辞は惜しまれることがなかった。十七歳で結婚。フランス王妃となるも、夫のフランソワ二世の急死で十八歳にして未亡人となり、故国へ帰ってくる。
帰国後の治世は、力を伸ばすプロテスタント勢力とも折り合いをつけながら、まずは平穏。ところが二十三歳のとき、周囲の猛烈な反対を押し切り十九歳の青年ダーンリ卿と結婚したことから、彼女の人生は呪われたものとなってしまう。
少し話が長くなるが、隣国イングランドは当時、宗教改革をまがりなりにも達成したとはいえ、まだまだ政情は不安定。何といっても、カトリックに弓を引いたヘンリー八世自身が、いったんエリザベスを非嫡子と認じてしまっているから、エリザベスはローマから見ると非合法の君主。正当なイングランドの王位継承者は、同じ血を受け継ぎながらスコットランド女王でもあるメアリーという、実に複雑な状況にあった。メアリーの結婚問題は、当時のヨーロッパにあって、極めて政治的な意味合いを持つものだったのである。
ところで、そもそも最初の夫であったフランソワだが、メアリーにとっては、共に育ったいわば幼馴染み。彼女が十七歳で結婚したとき、彼はまだ十五歳だった。子供の頃から病弱で、くる病のため性的には不能だったのではないか、という説もあるようだ。もし事実だとすると、ダーンリは彼女にとって、肉体を伴ったいわば初めての男性である。持てる権力の全てを使って、彼女は初恋に賭けた。
ヨーロッパ中の期待を裏切って夫としたダーンリだが、「王」となるや横暴を極め、たちまちのうちに無能を露呈。揚げ句の果てには、批判にさらされ傷心のメアリーの寵愛を受けていた音楽家リッツィオを、仲間と謀って彼女の目前で刺殺。メアリーの心はやがて、剛毅な実力者ボズウェル伯に移ってしまう。
そしてダーンリは暗殺され、直後にメアリーはボズウェルと結婚する。民衆は、ダーンリ殺害を二人の共謀と疑わず、ついに追われる身に・・・。彼女の恋は、今度は持てるもの全てを捨てての恋となった。
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メアリー・スチュアート。同時期にイングランドの女王であったエリザベス1世と、永遠のライバルのように言われるが、統治者として見たとき、残念ながらメアリーに歩はない。しかし彼女の波乱万丈な人生は、人々の記憶にとどめられるべきものだと思う。
メアリーは、生後すぐスコットランド女王に即位したのち六歳でフランス皇太子と婚約、彼の地に送られる。やがてフランス宮廷の洗練された文化を身につけ、その美貌と才能に対する賛辞は惜しまれることがなかった。十七歳で結婚。フランス王妃となるも、夫のフランソワ二世の急死で十八歳にして未亡人となり、故国へ帰ってくる。
帰国後の治世は、力を伸ばすプロテスタント勢力とも折り合いをつけながら、まずは平穏。ところが二十三歳のとき、周囲の猛烈な反対を押し切り十九歳の青年ダーンリ卿と結婚したことから、彼女の人生は呪われたものとなってしまう。
少し話が長くなるが、隣国イングランドは当時、宗教改革をまがりなりにも達成したとはいえ、まだまだ政情は不安定。何といっても、カトリックに弓を引いたヘンリー八世自身が、いったんエリザベスを非嫡子と認じてしまっているから、エリザベスはローマから見ると非合法の君主。正当なイングランドの王位継承者は、同じ血を受け継ぎながらスコットランド女王でもあるメアリーという、実に複雑な状況にあった。メアリーの結婚問題は、当時のヨーロッパにあって、極めて政治的な意味合いを持つものだったのである。
ところで、そもそも最初の夫であったフランソワだが、メアリーにとっては、共に育ったいわば幼馴染み。彼女が十七歳で結婚したとき、彼はまだ十五歳だった。子供の頃から病弱で、くる病のため性的には不能だったのではないか、という説もあるようだ。もし事実だとすると、ダーンリは彼女にとって、肉体を伴ったいわば初めての男性である。持てる権力の全てを使って、彼女は初恋に賭けた。
ヨーロッパ中の期待を裏切って夫としたダーンリだが、「王」となるや横暴を極め、たちまちのうちに無能を露呈。揚げ句の果てには、批判にさらされ傷心のメアリーの寵愛を受けていた音楽家リッツィオを、仲間と謀って彼女の目前で刺殺。メアリーの心はやがて、剛毅な実力者ボズウェル伯に移ってしまう。
そしてダーンリは暗殺され、直後にメアリーはボズウェルと結婚する。民衆は、ダーンリ殺害を二人の共謀と疑わず、ついに追われる身に・・・。彼女の恋は、今度は持てるもの全てを捨てての恋となった。
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