念のため、映画も見た。カズオ・イシグロ原作の「日の名残り」である。主演はアンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソン。監督はジェームズ・アイヴォリー。
前回、原作を採り上げて、主人公スティーブンスをカチカチの堅物で女中頭ミス・ケントンに対する恋心をほぼ完璧に抑圧しきった人物と断定したのだが、映画ではどのように描いているか見てみたくなったのだ。
ところでアンソニー・ホプキンスというヒトだが、「羊たちの沈黙」のレクター・ハンニバルの人物造型が強烈過ぎて、僕など、どの映画を見ても殺人鬼レクターに見えてしまう。異様な存在感があって、しかし何を考えているのか良く分からないといったキャラクターは、主人公スティーブンスという人間に原作からはあまり感じられなかった「凄み」と「神秘性」を与えることになったが、淡々と流れてゆくこの映画にとっては、見世物ができたわけで、むしろ正解だったと思う。
また原作は全編スティーブンスの一人称で語られるため、彼の意識の裏にある本当の心の動きは、彼の記憶の中のミス・ケントンたちの言動を通して読み取るしかないのだが、映画は第三者の視点(カメラ)で言葉と裏腹なスティーブンスの表情・挙動が見られるため、非常に分かりやすくなった。もちろんその分だけ、原作の持つ味わいが薄くなったことは否めないけれど。
一方エマ・トンプソン。僕は必ずしもこの女優さんが得意ではなくて、何というのかなあ、知が勝りすぎ(に見える)とでもいうべきか、でも上手いことには間違いがない。執事長と女中頭としてかつて同じ屋敷に勤め、結局恋が成就することもなく別れた二人は二十年後に再会するのだが、想いを殺してその後に自分の人生を築いたもう若くはない女性を、トンプソンは実に情感豊かに演じていた。
映画はスティーブンスの目の届かないところにいるミス・ケントンの描写も自由で、待つ女性の悲しさをストレートに表現していた。だから再会した彼女が、必ずしも幸福でなかった結婚生活を語る姿が胸を打つ。
原作にはこんなセリフがある。「夫を愛せるほどに私は成長したんです」。
しかし何ですね。ヒトの夫になんかなるもんじゃない。世の「妻」と呼ばれるほとんどすべての女性が、昔の彼氏に会って同じセリフをのたまいそうではないですか。僕の被害妄想か?男ってのは結構純情で、ちなみにミス・ケントンは結婚後、子を儲もうけ、孫まで生まれようとしている一方、スティーブンスは生涯独身。可哀想なのである。そう考えると、実は待ち続けたのはスティーブンスの方ではないか?映画を見ながらそんなことに気づいたのだった。
今、思い出した。十五年も昔、大阪梅田の紀伊国屋の前でカナコ嬢のことを三時間も待った揚げ句すっぽかされた。まったく下心というのは情けないものである。のちに彼女が整形美人と人づてに聞いて、この一件、損したのか得したのか。
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12/02/2009
日の名残り①
待つのもつらいが、待たせるのはもっとつらい、というようなことを太宰治がどこかに書いていた記憶がある。本当だろうか。本人に「待たせている」という自覚が切実にあれば、この言葉も説得力があるが、待つ身の痛みを知る能力がなければ、言い訳の中でも最もタチの悪いものであろう。
待っている瞬間が最もエロティックだと言ったのは、シュール・レアリズムの元締め、アンドレ・ブルトンだったか。一理ある。じらし、じらされは恋のかけ引きのひとつだし、トレンディ・ドラマの恋の当事者たちは自分の感情はもちろん、相手の気持ちをも十分に知っており、だからこそ「物語」になる。
こういったセンスが皆無の、究極の朴念仁を描いたのが、カズオ・イシグロの「日の名残り」だ。
第二次世界大戦前夜。名門ダーリントン卿に仕える執事長スティーブンスの一人称で語られる、英国の裏面史といった趣の作品。彼は「偉大な執事」像を追い求め粉骨砕身するのだが、ある日、女中頭ミス・ケントンが登場することで、微妙に心理的バランスを崩し始める。
当初、ミス・ケントンは女性らしい細やかさで、スティーブンスの生活に潤いを与えようと心配りをするのだが、彼は職務の遂行を第一としてその親切のことごとくを拒絶してしまう。元来勝気なミス・ケントンは対立・和解を繰り返しながら、彼の求愛を待ち続けるのだが、自分の気持ちが決して受け入れられることがないのを悟り、必ずしも意に沿わぬ男性との結婚を決意して屋敷を去る。
一見、何ということもないストーリーだが、「執事」という特殊な職業、強い忠誠心とおそらく女性恐怖から、恋心をほぼ完全に意識下に抑圧している主人公スティーブンスの複雑な性格、そして現代的だが身よりもなく孤独で、古い因習の中に生きざるを得ないミス・ケントンの人物設定などが巧みで、最後まで飽きさせない。
貴族の使命感から、ナチス支援に身を砕いたダーリントン卿は戦後、没落、歴史から葬り去られる。スティーブンスの描く執事の理想像とは、ただ盲目的に主人に仕えることであって、決して主人をただすなどの出すぎたまねをしないというものだったので、ひたすら「偉大な執事」を求めた彼の人生もいわば徒労に終わるかに見える。悲劇的だが、それでも読後感がなぜかさわやかなのは、思いやりや許容能力に欠けた小人物スティーブンスの人生の人生を、作者が優しく見守っているからだろう。
ところで。待ち続ける女というのは常に悲劇的だが、待ち続ける男というのは-。やっぱり喜劇的だろうね。
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待っている瞬間が最もエロティックだと言ったのは、シュール・レアリズムの元締め、アンドレ・ブルトンだったか。一理ある。じらし、じらされは恋のかけ引きのひとつだし、トレンディ・ドラマの恋の当事者たちは自分の感情はもちろん、相手の気持ちをも十分に知っており、だからこそ「物語」になる。
こういったセンスが皆無の、究極の朴念仁を描いたのが、カズオ・イシグロの「日の名残り」だ。
第二次世界大戦前夜。名門ダーリントン卿に仕える執事長スティーブンスの一人称で語られる、英国の裏面史といった趣の作品。彼は「偉大な執事」像を追い求め粉骨砕身するのだが、ある日、女中頭ミス・ケントンが登場することで、微妙に心理的バランスを崩し始める。
当初、ミス・ケントンは女性らしい細やかさで、スティーブンスの生活に潤いを与えようと心配りをするのだが、彼は職務の遂行を第一としてその親切のことごとくを拒絶してしまう。元来勝気なミス・ケントンは対立・和解を繰り返しながら、彼の求愛を待ち続けるのだが、自分の気持ちが決して受け入れられることがないのを悟り、必ずしも意に沿わぬ男性との結婚を決意して屋敷を去る。
一見、何ということもないストーリーだが、「執事」という特殊な職業、強い忠誠心とおそらく女性恐怖から、恋心をほぼ完全に意識下に抑圧している主人公スティーブンスの複雑な性格、そして現代的だが身よりもなく孤独で、古い因習の中に生きざるを得ないミス・ケントンの人物設定などが巧みで、最後まで飽きさせない。
貴族の使命感から、ナチス支援に身を砕いたダーリントン卿は戦後、没落、歴史から葬り去られる。スティーブンスの描く執事の理想像とは、ただ盲目的に主人に仕えることであって、決して主人をただすなどの出すぎたまねをしないというものだったので、ひたすら「偉大な執事」を求めた彼の人生もいわば徒労に終わるかに見える。悲劇的だが、それでも読後感がなぜかさわやかなのは、思いやりや許容能力に欠けた小人物スティーブンスの人生の人生を、作者が優しく見守っているからだろう。
ところで。待ち続ける女というのは常に悲劇的だが、待ち続ける男というのは-。やっぱり喜劇的だろうね。
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11/25/2009
フィツカラルド
つい最近知ったのだ。なんと、このコラム、「ドイツ・ニュースダイジェスト」でも連載されていた!今までは英国に敬意を表して、何とかこの国中心の色恋沙汰にこだわってきたのだ。いやぁ、これで話題が広がる。いーことやんけ、せやんけ、ダンケ、ダンケ。
ドイツといえば、まずはこの男だ。クラウス・キンスキー。もう数年前に亡くなってしまったが、本国ドイツでは、ヘルツォーグ監督と組んだ一連の作品が内外で高い評価を得て、一時のジャーマン・ニューウェーブを引っ張った名優である。
ときに人生に対して強烈なインパクトを与えてくれる映画があって、これらとの初めての出会いがビデオやdvdじゃなくて映画館であったりすると、これはもう天に巡り合わせを感謝したくなる。小学5年生のとき、こうして僕は「アラビアのロレンス」と出会い、中2のとき「七人の侍」と出会った(いずれも再上映)。大学に入った頃出会ったのが、キンスキー主演の代表作「アギーレ・神の怒り」そして「フィツカラルド」であった。
この人は、とり憑かれた男を演じると凄まじいエネルギーを発散する人で、「アギーレ」ではエル・ドラド発見に執念を燃やす中世の武将、そして「フィツカラルド」では、南米の奥地にオペラハウスを建てる夢を追う実業家を演じていた。
人格破綻者である。私生活でも自らを「クライスト」と任じ、政治講演会などで観客をアジっていたようだが、ひょっとすると、本当にクライストなのかもしれないと思わせるような強烈な顔をしていた。そう、キンスキーは顔である。初めてスクリーンに現れた彼の顔を見たとき、僕はガツンと頭に一撃、中年になったら男はこういう顔にならねばならぬ、と決めたものだ。それに反して今のところ、鼻の下が長くなるばかりのように思えるのは、気のせいか?
さて、「フィツカラルド」はビデオでもdvdででも見るべし。なぜなら、聖女が登場するからだ。クラウディア・カルディナーレ演じるところの、フィツカラルドの愛人兼スポンサー、娼婦館のマダムである。スポンサーだって?ではフィツカラルドは単なるヒモか?とんでもない。映画の中で、キンスキーは神に挑戦して敗北した超人であり、CCは聖女なのだ。見れば分かる。
しかし、CCなんて言葉、知っている人も少ないだろうな。昔々、三人の聖女が君臨しており、それぞれMM(マリリン・モンロー)、BB(ブリジッド・バルドー)、CC(クラウディア・カルディナーレ)と称されました。
では、これらはどうだろう。NK。TM。MY。OK。KM。NN。AT。SN。MA。
正解は、僕が今までに好きになった女の子たちだ。聖女だったかって?愚問だね。
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ドイツといえば、まずはこの男だ。クラウス・キンスキー。もう数年前に亡くなってしまったが、本国ドイツでは、ヘルツォーグ監督と組んだ一連の作品が内外で高い評価を得て、一時のジャーマン・ニューウェーブを引っ張った名優である。
ときに人生に対して強烈なインパクトを与えてくれる映画があって、これらとの初めての出会いがビデオやdvdじゃなくて映画館であったりすると、これはもう天に巡り合わせを感謝したくなる。小学5年生のとき、こうして僕は「アラビアのロレンス」と出会い、中2のとき「七人の侍」と出会った(いずれも再上映)。大学に入った頃出会ったのが、キンスキー主演の代表作「アギーレ・神の怒り」そして「フィツカラルド」であった。
この人は、とり憑かれた男を演じると凄まじいエネルギーを発散する人で、「アギーレ」ではエル・ドラド発見に執念を燃やす中世の武将、そして「フィツカラルド」では、南米の奥地にオペラハウスを建てる夢を追う実業家を演じていた。
人格破綻者である。私生活でも自らを「クライスト」と任じ、政治講演会などで観客をアジっていたようだが、ひょっとすると、本当にクライストなのかもしれないと思わせるような強烈な顔をしていた。そう、キンスキーは顔である。初めてスクリーンに現れた彼の顔を見たとき、僕はガツンと頭に一撃、中年になったら男はこういう顔にならねばならぬ、と決めたものだ。それに反して今のところ、鼻の下が長くなるばかりのように思えるのは、気のせいか?
さて、「フィツカラルド」はビデオでもdvdででも見るべし。なぜなら、聖女が登場するからだ。クラウディア・カルディナーレ演じるところの、フィツカラルドの愛人兼スポンサー、娼婦館のマダムである。スポンサーだって?ではフィツカラルドは単なるヒモか?とんでもない。映画の中で、キンスキーは神に挑戦して敗北した超人であり、CCは聖女なのだ。見れば分かる。
しかし、CCなんて言葉、知っている人も少ないだろうな。昔々、三人の聖女が君臨しており、それぞれMM(マリリン・モンロー)、BB(ブリジッド・バルドー)、CC(クラウディア・カルディナーレ)と称されました。
では、これらはどうだろう。NK。TM。MY。OK。KM。NN。AT。SN。MA。
正解は、僕が今までに好きになった女の子たちだ。聖女だったかって?愚問だね。
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11/19/2009
ロリータ③
くどいが、もう一回、ロリコンについて書く。
あれからいろいろ考えた。考えた末に、ロリコンを三つのタイプに分けられるのではないか、という結論に落ち着いた。
①「真性ロリコン」②「擬性ロリコン」③「仮性ロリコン」である。
①「真性ロリコン」については、これはもうそのまま、である。とにかく思春期以前の少女にのみ積極的欲望を覚えるタイプ。「ロリータ」のハンバートは、成熟した女性とも性的交渉を持ちえたが、彼の場合は美学的・意志的真性ロリコンと呼べるかもしれない。
②「擬性ロリコン」。一見、ロリコンのように見えるがロリコンではない。肉体的特徴から言えば、思春期以後の少女、というか女性に欲望が向かうタイプ。では、なぜ、擬性とはいえロリコンと呼べるかと言うと、たとえば顔立ちが童顔、あるいは仕種・服装が幼いなど、少女を連想させるような外見的特徴に欲望が向かうからだ。こう考えると、ロリコンと分類されるようなHなサイトのキャラクターとか、男性誌に登場する美少女像の多くが、真性ロリコンのフィールドから大きく逸脱する。コスチューム、童顔、しゃべり口調はともかく、肉体的には成熟しているわけだから、そのギャップに魅かれているだけなわけで、きわめて健全である(でしょ?でもないか?)。で、ほとんどの「ロリコン」と呼ばれる人たちは、このカテゴリーに属するのではなかろうか。安心してファンタジーを楽しみたまえ。
③「仮性ロリコン」。これがなかなか難物。意外と一番危険なのはこのタイプではないか。何よりも真性と仮性を隔てるのは、「少女」という概念に対するその愛の深さであろう。仮性ロリコンは、いろいろなコンプレックスを解決できぬまま抱え込み、それゆえに弱者としての少女に対して欲望が向かう存在、と僕は定義する。もちろん、仮性とはいえロリコンだから、ハンバートの言う「ニンフェット」へのベクトルもあろう、しかし病んだ部分を取り除けば、大人の女性へとエロスが流れるようなロリコンである。
「ロリータ」の話だが、ハンバートは、母を亡くしたロリータと、あちこちを車でさまようのだが、このあたりから小説は、その悪魔的な求心力を失っていく。少女偏愛の話から、もっと普遍的な愛の物語になるからだ。それに気づかぬハンバートを、ロリータが捨てたのも無理はない。ロリータはすでにニンフェットではなく、男を愛するひとりの女に化身していたのだった。
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あれからいろいろ考えた。考えた末に、ロリコンを三つのタイプに分けられるのではないか、という結論に落ち着いた。
①「真性ロリコン」②「擬性ロリコン」③「仮性ロリコン」である。
①「真性ロリコン」については、これはもうそのまま、である。とにかく思春期以前の少女にのみ積極的欲望を覚えるタイプ。「ロリータ」のハンバートは、成熟した女性とも性的交渉を持ちえたが、彼の場合は美学的・意志的真性ロリコンと呼べるかもしれない。
②「擬性ロリコン」。一見、ロリコンのように見えるがロリコンではない。肉体的特徴から言えば、思春期以後の少女、というか女性に欲望が向かうタイプ。では、なぜ、擬性とはいえロリコンと呼べるかと言うと、たとえば顔立ちが童顔、あるいは仕種・服装が幼いなど、少女を連想させるような外見的特徴に欲望が向かうからだ。こう考えると、ロリコンと分類されるようなHなサイトのキャラクターとか、男性誌に登場する美少女像の多くが、真性ロリコンのフィールドから大きく逸脱する。コスチューム、童顔、しゃべり口調はともかく、肉体的には成熟しているわけだから、そのギャップに魅かれているだけなわけで、きわめて健全である(でしょ?でもないか?)。で、ほとんどの「ロリコン」と呼ばれる人たちは、このカテゴリーに属するのではなかろうか。安心してファンタジーを楽しみたまえ。
③「仮性ロリコン」。これがなかなか難物。意外と一番危険なのはこのタイプではないか。何よりも真性と仮性を隔てるのは、「少女」という概念に対するその愛の深さであろう。仮性ロリコンは、いろいろなコンプレックスを解決できぬまま抱え込み、それゆえに弱者としての少女に対して欲望が向かう存在、と僕は定義する。もちろん、仮性とはいえロリコンだから、ハンバートの言う「ニンフェット」へのベクトルもあろう、しかし病んだ部分を取り除けば、大人の女性へとエロスが流れるようなロリコンである。
「ロリータ」の話だが、ハンバートは、母を亡くしたロリータと、あちこちを車でさまようのだが、このあたりから小説は、その悪魔的な求心力を失っていく。少女偏愛の話から、もっと普遍的な愛の物語になるからだ。それに気づかぬハンバートを、ロリータが捨てたのも無理はない。ロリータはすでにニンフェットではなく、男を愛するひとりの女に化身していたのだった。
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11/11/2009
ロリータ②
書かねばならぬ。なぜか自分でそう思い決めて「ロリータ」の続き。
ロリータに恋をする主人公ハンバートによると、「少女は九歳から十四歳までのあいだに、自分よりも何倍も年上のある種の魅せられた旅人に対して、人間らしからぬ、ニンフのような(つまり悪魔的な)本性を現すことがある」(新潮文庫版『ロリータ』大久保康夫訳)という。そしてこういう特質を持った少女のことを彼は「ニンフェット」と呼ぶ。
実は物語の最初の部分で、彼は二十四年前、自身が少年だったときのある少女との官能を伴った初恋のことを語るのだが、彼はその少女はニンフェットではなかった、と言う。当然だ。彼は少女と同年代だったのだから。だけどその残像のようなものは、のちまでずっと彼をとらえ続け、二十四年後ロリータに化身させることで初めて開放された、と語る。
となると、彼は単なる追憶者なのか。
ハンバートは、自分の俗悪さ、醜怪さをこれでもかと告白し、それとは対極にあるニンフェットの美を賛美する。ロリータが成熟するに従い、その特有の美を失っていくのを想像しては幾度となく嘆く。彼は決して処女崇拝者ではない。だから、ロリータがすでに処女ではなかったと知っても、大して落胆もしていない。どころか、欲望にとらわれるや、狂ったように何度も何度もロリータを抱くのである。
それも当然か。彼の愛の対象とは「純潔」にあるのではなく、刻一刻失われる運命にあるニンフェットの美である。彼は時間と格闘しているのだ。それが永遠に失われる前に、すべてを飲み干そうとしているのだ。
前回も書いたことなのだけど、僕は少女を見ることが苦手だ。見ることは、しばしば欲望することと同義だ、と本能的に知っているからかもしれない。となると僕もアブナイ。自戒せねばならぬ。
物語中こんな記述がある。「成熟の第二の有力な徴候は、色素をおびた恥毛が発生することだ(十一年二ヶ月)」。ハンバートにとっては欲望の臨界点なわけだが、試しに「少女の性器」、とこう書いてみるだけでも、ロリータ・ノンケであるはずの僕ですら、めまいに似たような感覚に襲われる。うーん。
ところで、こちらのポルノ雑誌、どうしてヘアを剃ったモデルがかくも多いのか。もちろん、見せるべき部分をきちんと見せる、という商業的要請もあるからだろうけど、それだけかしら。長い間、裸体画にヘアを描かない伝統と結びついている可能性もある。それとも、ヘアが写っているなんて喜んでいるようでは、まだまだエロティシズムの洗練の度合いが低い、ということなのか。でも僕は春画派。あぶな絵は日本の誇り、などとよく分からないままで今回はおしまい。
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ロリータに恋をする主人公ハンバートによると、「少女は九歳から十四歳までのあいだに、自分よりも何倍も年上のある種の魅せられた旅人に対して、人間らしからぬ、ニンフのような(つまり悪魔的な)本性を現すことがある」(新潮文庫版『ロリータ』大久保康夫訳)という。そしてこういう特質を持った少女のことを彼は「ニンフェット」と呼ぶ。
実は物語の最初の部分で、彼は二十四年前、自身が少年だったときのある少女との官能を伴った初恋のことを語るのだが、彼はその少女はニンフェットではなかった、と言う。当然だ。彼は少女と同年代だったのだから。だけどその残像のようなものは、のちまでずっと彼をとらえ続け、二十四年後ロリータに化身させることで初めて開放された、と語る。
となると、彼は単なる追憶者なのか。
ハンバートは、自分の俗悪さ、醜怪さをこれでもかと告白し、それとは対極にあるニンフェットの美を賛美する。ロリータが成熟するに従い、その特有の美を失っていくのを想像しては幾度となく嘆く。彼は決して処女崇拝者ではない。だから、ロリータがすでに処女ではなかったと知っても、大して落胆もしていない。どころか、欲望にとらわれるや、狂ったように何度も何度もロリータを抱くのである。
それも当然か。彼の愛の対象とは「純潔」にあるのではなく、刻一刻失われる運命にあるニンフェットの美である。彼は時間と格闘しているのだ。それが永遠に失われる前に、すべてを飲み干そうとしているのだ。
前回も書いたことなのだけど、僕は少女を見ることが苦手だ。見ることは、しばしば欲望することと同義だ、と本能的に知っているからかもしれない。となると僕もアブナイ。自戒せねばならぬ。
物語中こんな記述がある。「成熟の第二の有力な徴候は、色素をおびた恥毛が発生することだ(十一年二ヶ月)」。ハンバートにとっては欲望の臨界点なわけだが、試しに「少女の性器」、とこう書いてみるだけでも、ロリータ・ノンケであるはずの僕ですら、めまいに似たような感覚に襲われる。うーん。
ところで、こちらのポルノ雑誌、どうしてヘアを剃ったモデルがかくも多いのか。もちろん、見せるべき部分をきちんと見せる、という商業的要請もあるからだろうけど、それだけかしら。長い間、裸体画にヘアを描かない伝統と結びついている可能性もある。それとも、ヘアが写っているなんて喜んでいるようでは、まだまだエロティシズムの洗練の度合いが低い、ということなのか。でも僕は春画派。あぶな絵は日本の誇り、などとよく分からないままで今回はおしまい。
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11/03/2009
ロリータ①
たとえば妙齢のミニスカートの女性が、地下鉄の階段を昇っていたとする。そして後に続く僕の目には、まっすぐ伸びた脚のつけ根を覆う白い布切れがちらちらと。おお何たる僥倖、僕は世界一の幸せ者だ。
ところが、公園のベンチに座っている僕の目の前で、まだあどけない九つかそこらの少女が、リスに餌をやろうとしゃがみこんだ、その瞬間、イチゴのプリントされた下着が目に飛び込んでくるやいなや、僕は目をそむけるに違いない。なぜだ?
無防備な状態にある存在を見るというエロティシズムは確かに成立する。のぞきがそうだし、盗撮もそうだ。だけど、成熟した肉体が対象のときよりも、そうでないときの方が、ドギマギ度が高いことを考えれば、実は高度のエロティシズムとは未成熟な肉体を通してこそ実現するのではないか、という仮定も成り立つ。
この理屈に対して、敢然とイエス、と言い切ったのはロシア生まれ、ケンブリッジで学んだのちアメリカに渡ったナボコフである。しかし、彼の「ロリータ」という作品、なかなか一筋縄ではいかない。
「ロリータ」を読んでいると、何というか、これが作家の力量なのだろう、主人公ハンバート・ハンバートとナボコフが同一視されてきて、この作家は本物の変態だ、となんだかぐったり疲れてしまうが、彼自身は「文学作品とは、美的悦楽を与えるものだ」というようなことを自作のあとがきに書いていて、極めて知的な創作(精神)活動の産物だったのだなと、どこかほっともさせられる。だけど怪物的作家であったことは間違いない。
「ロリータ」は、いわゆるロリコンの小説ではない。もちろん、「ロリータ・コンプレックス」という言葉はこの小説から造られたわけだけど、ハンバート・ハンバートをロリコンと形容するのは無理があると思う。僕にとって、ロリコンと呼んでも良さそうなのは、「不思議の国のアリス」で知られる作家ルイス・キャロルなんかで、生涯独身だったり、どこか閉塞的な私生活など、現代のオタク的ロリコン像と重なるところも多い。
あれ、まずいか、オタクなんて言葉。ひと括りにできないのだ。自分のファンタジーの中だけで、たとえばロリコンという虚構を虚構として楽しむ、という人たちが、現在のロリコンと呼ばれる人たちの圧倒的多数だろうから、つまりそういう意味で、ルイス・キャロルは現代的なのである。
ところが、ハンバートは違う。ファンタジーを実存的に生きようとした、いわば行動の人なのである。ファンタジーを突き抜けてしまっているわけで、その分、狂気に近い。紙面が尽きた。次回へ。
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ところが、公園のベンチに座っている僕の目の前で、まだあどけない九つかそこらの少女が、リスに餌をやろうとしゃがみこんだ、その瞬間、イチゴのプリントされた下着が目に飛び込んでくるやいなや、僕は目をそむけるに違いない。なぜだ?
無防備な状態にある存在を見るというエロティシズムは確かに成立する。のぞきがそうだし、盗撮もそうだ。だけど、成熟した肉体が対象のときよりも、そうでないときの方が、ドギマギ度が高いことを考えれば、実は高度のエロティシズムとは未成熟な肉体を通してこそ実現するのではないか、という仮定も成り立つ。
この理屈に対して、敢然とイエス、と言い切ったのはロシア生まれ、ケンブリッジで学んだのちアメリカに渡ったナボコフである。しかし、彼の「ロリータ」という作品、なかなか一筋縄ではいかない。
「ロリータ」を読んでいると、何というか、これが作家の力量なのだろう、主人公ハンバート・ハンバートとナボコフが同一視されてきて、この作家は本物の変態だ、となんだかぐったり疲れてしまうが、彼自身は「文学作品とは、美的悦楽を与えるものだ」というようなことを自作のあとがきに書いていて、極めて知的な創作(精神)活動の産物だったのだなと、どこかほっともさせられる。だけど怪物的作家であったことは間違いない。
「ロリータ」は、いわゆるロリコンの小説ではない。もちろん、「ロリータ・コンプレックス」という言葉はこの小説から造られたわけだけど、ハンバート・ハンバートをロリコンと形容するのは無理があると思う。僕にとって、ロリコンと呼んでも良さそうなのは、「不思議の国のアリス」で知られる作家ルイス・キャロルなんかで、生涯独身だったり、どこか閉塞的な私生活など、現代のオタク的ロリコン像と重なるところも多い。
あれ、まずいか、オタクなんて言葉。ひと括りにできないのだ。自分のファンタジーの中だけで、たとえばロリコンという虚構を虚構として楽しむ、という人たちが、現在のロリコンと呼ばれる人たちの圧倒的多数だろうから、つまりそういう意味で、ルイス・キャロルは現代的なのである。
ところが、ハンバートは違う。ファンタジーを実存的に生きようとした、いわば行動の人なのである。ファンタジーを突き抜けてしまっているわけで、その分、狂気に近い。紙面が尽きた。次回へ。
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10/28/2009
ロミオとジュリエット②
ゼフィレッリ監督の68年の「ロミオとジュリエット」には仕掛けがある、と前回書いた。今からご披露する。初めてこれに気がついたとき、僕は自分の眼力に陶然となった。
それは「もっこり」と「胸の谷間」である。
冒頭、カメラは霧の町を俯瞰し、荘厳なムードを醸し出す。そして本編に入るや、市の並び立つ広場。画面左上から若者たちが歩いてくる。目は当然そちらを追う、そして。おや、あれは何だ。股間がもっこり。そして何やらちらちらするものが。
あれは何と呼べばよいのか。性器袋では直截すぎる。股間当て、では生理用ナプキンのようで誤解を生みそうだ。しっくりとはこないが、イチモツ・サックと命名する。駄目か?とにかくこのイチモツ・サックにはご丁寧にもひげのような飾りまで付いていて、どうしたって観客の目がそこに向くようになっている。しかも映画の最初の部分だから、観客の無意識の中に、このイチモツ・サックはしっかりと刷り込まれるに違いない。
そしてジュリエット。最初は体型がてんで分からないような衣装で登場するのだが、例の屋敷の庭での「ロミオよロミオ、あなたはどうしてロミオなの」のシーン。物思いにふけるジュリエット(オリビア・ハッセー)のあどけない表情とともにカメラは胸の谷間をも写し続ける。これは結構インパクトがあるよ。
映画の後半、淡いものだが二人のベッドシーンが描かれることからも、このもっこりと胸の谷間は絶対に仕組んでやったことに違いない。で、この仕掛けがあるから、二人の悲劇の本質が、嵐のような性愛に目覚めたことにある、というコンセプトが明確になったのだ。
ちなみにこの作品、アカデミー衣装賞を受賞している。まことに恐るべきは、イチモツ・サックと胸の谷間。
さて、もっこりだが、中学2年のときだったろうか、確かマーゴット・フォンテインとヌレエフのバレエ「白鳥の湖」の記録映画を見に行った。僕の通っていた中学では、年に二度ほど校外の劇場へ、全生徒で映画を見に行くという行事があったのだ。どなたの発案でバレエになったのかは知らないけれど、先生、見事な教育効果でした。翌日、全校中がヌレエフのもっこりの話題でもちきりでしたよ。性教育の一環だったのだろう。少し遠回りな気もするが。
僕が自分のもっこりに気づき、これが気になりだしたのは、小学校5年くらいのときだったと思う。と同時に、同級生の胸のふくらみにやたら目が行くようになった。サトコちゃん、どーしているかなー。
ぴったりしたズボンなど身につけると、今でもやはりもっこりが気になるのだが、彼女いわく。「全然目立ちません」。へい。よくご存知で。
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それは「もっこり」と「胸の谷間」である。
冒頭、カメラは霧の町を俯瞰し、荘厳なムードを醸し出す。そして本編に入るや、市の並び立つ広場。画面左上から若者たちが歩いてくる。目は当然そちらを追う、そして。おや、あれは何だ。股間がもっこり。そして何やらちらちらするものが。
あれは何と呼べばよいのか。性器袋では直截すぎる。股間当て、では生理用ナプキンのようで誤解を生みそうだ。しっくりとはこないが、イチモツ・サックと命名する。駄目か?とにかくこのイチモツ・サックにはご丁寧にもひげのような飾りまで付いていて、どうしたって観客の目がそこに向くようになっている。しかも映画の最初の部分だから、観客の無意識の中に、このイチモツ・サックはしっかりと刷り込まれるに違いない。
そしてジュリエット。最初は体型がてんで分からないような衣装で登場するのだが、例の屋敷の庭での「ロミオよロミオ、あなたはどうしてロミオなの」のシーン。物思いにふけるジュリエット(オリビア・ハッセー)のあどけない表情とともにカメラは胸の谷間をも写し続ける。これは結構インパクトがあるよ。
映画の後半、淡いものだが二人のベッドシーンが描かれることからも、このもっこりと胸の谷間は絶対に仕組んでやったことに違いない。で、この仕掛けがあるから、二人の悲劇の本質が、嵐のような性愛に目覚めたことにある、というコンセプトが明確になったのだ。
ちなみにこの作品、アカデミー衣装賞を受賞している。まことに恐るべきは、イチモツ・サックと胸の谷間。
さて、もっこりだが、中学2年のときだったろうか、確かマーゴット・フォンテインとヌレエフのバレエ「白鳥の湖」の記録映画を見に行った。僕の通っていた中学では、年に二度ほど校外の劇場へ、全生徒で映画を見に行くという行事があったのだ。どなたの発案でバレエになったのかは知らないけれど、先生、見事な教育効果でした。翌日、全校中がヌレエフのもっこりの話題でもちきりでしたよ。性教育の一環だったのだろう。少し遠回りな気もするが。
僕が自分のもっこりに気づき、これが気になりだしたのは、小学校5年くらいのときだったと思う。と同時に、同級生の胸のふくらみにやたら目が行くようになった。サトコちゃん、どーしているかなー。
ぴったりしたズボンなど身につけると、今でもやはりもっこりが気になるのだが、彼女いわく。「全然目立ちません」。へい。よくご存知で。
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10/19/2009
ロミオとジュリエット①
ディカプリオもいいけれど、やっぱりレナード・ホワイティングだろう。そう、これでピンときた人は、僕とほぼ同世代。ロミオを演じた役者である。そしてオリビア・ハッセー、一世一代の当たり役ジュリエット。
六十八年のイギリス・イタリア合作の「ロミオとジュリエット」は、フランコ・ゼフィレッリ監督の作品。この人はなかなか器用な人で、「チャンプ」のような泣かせものもそつなくこなすが、どちらかと言えば文芸物が得意のようだ。比較的最近の「ジェイン・エア」も彼の監督作品だ。
で、ゼフィレッリ監督の「ロミオとジュリエット」だが、まだ十四にもならぬ少女ジュリエットとロミオの「幼い恋」という要素を前面に押し出した。だからこそ、極めてリアリティあふれる作品に仕上がっていたのだと思う。
たとえばジュリエットは、いつもちょこまかと走り回り、些細なことにも絶えず笑い転げている。また、初めて二人が出会う舞踏会のシーン。カメラは輪舞のさなかの二人を追い、猛烈なスピードで回転する。子供たちが遊園地のコーヒー・カップ(古いな)のハンドルをむやみにぐるぐる回して喜ぶ姿にも似ている。あるいは、二人の悲劇の発端となるマキューシオの決闘・死のシーンなど、半ば冗談半分の戯れ。それがアクシデントで現実のものとなってしまったという扱い方も、彼らの幼さをあらわしている。
だから、彼らの大げさなセリフも真に迫るのだ-とは言っても、映画では字幕がなければ、何を言っているのか分からないのだけど。シェイクスピア劇ってのはこのあたりがつらいな、なんて、じゃあ現代劇なら英語をちゃんと聞き取れているのかい?と、ひとり突っ込み。
それにしても、初恋というのはいつも大げさなものである。思い起こせば、中三の修学旅行の夜、僕が始めて恋心を打ち明けたマユミちゃん(おい、本名書いちゃったよ)。どうして修学旅行まで待たねばならなかったか、よく分からないのだけど、やはり思いつめていたのだろう。それなりの舞台が必要だったのだ。
おお、彼女の唇は何にもまして愛らしく、瞳は深いグレイ。胸は夢と若さにはちきれそうだった。年を経た今。その同じ唇で、焼きそばか何かをすすり(昔も食っていたはずだが)、目にはコンタクト(いいじゃないか)、赤ん坊(とは限らないが)に乳房を吸わせたりしているのだろうよ。
だけど修学旅行から帰ってきた僕は、生まれて初めて、頬を風がなでていくのを感じたのを今でも覚えている。ロミオとジュリエットの恋というのは、あの風のことなんだ。
ゼフィレッリ監督の「ロミオとジュリエット」には実は仕掛けがあって、これについては次回。
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六十八年のイギリス・イタリア合作の「ロミオとジュリエット」は、フランコ・ゼフィレッリ監督の作品。この人はなかなか器用な人で、「チャンプ」のような泣かせものもそつなくこなすが、どちらかと言えば文芸物が得意のようだ。比較的最近の「ジェイン・エア」も彼の監督作品だ。
で、ゼフィレッリ監督の「ロミオとジュリエット」だが、まだ十四にもならぬ少女ジュリエットとロミオの「幼い恋」という要素を前面に押し出した。だからこそ、極めてリアリティあふれる作品に仕上がっていたのだと思う。
たとえばジュリエットは、いつもちょこまかと走り回り、些細なことにも絶えず笑い転げている。また、初めて二人が出会う舞踏会のシーン。カメラは輪舞のさなかの二人を追い、猛烈なスピードで回転する。子供たちが遊園地のコーヒー・カップ(古いな)のハンドルをむやみにぐるぐる回して喜ぶ姿にも似ている。あるいは、二人の悲劇の発端となるマキューシオの決闘・死のシーンなど、半ば冗談半分の戯れ。それがアクシデントで現実のものとなってしまったという扱い方も、彼らの幼さをあらわしている。
だから、彼らの大げさなセリフも真に迫るのだ-とは言っても、映画では字幕がなければ、何を言っているのか分からないのだけど。シェイクスピア劇ってのはこのあたりがつらいな、なんて、じゃあ現代劇なら英語をちゃんと聞き取れているのかい?と、ひとり突っ込み。
それにしても、初恋というのはいつも大げさなものである。思い起こせば、中三の修学旅行の夜、僕が始めて恋心を打ち明けたマユミちゃん(おい、本名書いちゃったよ)。どうして修学旅行まで待たねばならなかったか、よく分からないのだけど、やはり思いつめていたのだろう。それなりの舞台が必要だったのだ。
おお、彼女の唇は何にもまして愛らしく、瞳は深いグレイ。胸は夢と若さにはちきれそうだった。年を経た今。その同じ唇で、焼きそばか何かをすすり(昔も食っていたはずだが)、目にはコンタクト(いいじゃないか)、赤ん坊(とは限らないが)に乳房を吸わせたりしているのだろうよ。
だけど修学旅行から帰ってきた僕は、生まれて初めて、頬を風がなでていくのを感じたのを今でも覚えている。ロミオとジュリエットの恋というのは、あの風のことなんだ。
ゼフィレッリ監督の「ロミオとジュリエット」には実は仕掛けがあって、これについては次回。
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10/07/2009
シェイクスピア
調子に乗って、言わずもがなのことをポロリ、言ってしまうことがある。ある時、公の場といってもいい所で、シェイクスピアに関して、「ひと言で言えば、嫌な奴」と口走ったところ、あるご婦人から猛烈なお叱りを受けた。いやあ、怖かった。何も僕などの言うことに、そう目くじらを立てることもなかろうにと思ったのだが。
考えてもみて欲しい。そもそもシェイクスピア、謎が多い人物で、文体はばらばら、残されたエピソードからうかがい知れる人格は支離滅裂、複数説まである御仁である。
ストラトフォード時代、年上のアンとの恋愛沙汰も、妊娠させた上逃げ出すつもりだったという説もあるし、彼女との結婚も先方の親族の脅迫に遭ってしぶしぶだったという話もある。もちろん、純愛のように描く人も多いけどね。ロンドンに出てからの舞台創作での天才の発揮はさすがだが、借金はなかなか返さないわ、逆に自分の貸した金は容赦なく取り立てるわ、おいおい、お前はシャイロックか?揚げ句の果てに妻に遺言で残したものは、「二番目に良いベッド」のみ。これいい奴かと問われれば、やっぱりヤな奴だろう。僕は間違っていますでしょうか?
でも、「恋におちたシェイクスピア」は、なかなか良い映画だった。アカデミー賞を何本も独占するほどの傑作とは思わないが、愛に満ちた佳品である。
内容は「ロミオとジュリエット」誕生の裏話といった、割と他愛のないものなのだが、SFXを駆使した映像で、目を驚かせるような作品が多い中、何か舞台劇を作るように映画を作る、そういう手作りの喜びのようなものがフィルムの中に満ち溢れていた。いわば映画制作そのものへの愛、に対してオスカーは与えられたのだと思う。
グウィネス・パルトロウの男装、ヌードも目に楽しいのだけど、シェイクスピアを演じたジョゼフ・ファインズの演技が、なかなか説得力があった。つまり、僕の中にある「シェイクスピア=嫌な奴」というイメージと必ずしも相反さないのである。いったん思い込んだらまっしぐら、しかもどこに行くのか分からない。そんなキャラクターは、その場の思いつきでころころ変わるかに見える天才の一端を、確かに捉えていたのではないか、と思った。
先のご婦人、彼にまつわるいろんなエピソードをしっかり知ったうえで、シェイクスピアに恋していたのだ。変幻自在、神出鬼没。善悪の両義性。聖性と俗物。いやぁ、四百年の時を経て、これだけ女性を魅了する男というのは、やっぱりすごい。見習わなければならぬ。僕なども、よく嫌な奴と言われるが、これは褒め言葉なのだ。
とにかく。恋する女性の相手のことは、決して悪く言ってはいけません。
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考えてもみて欲しい。そもそもシェイクスピア、謎が多い人物で、文体はばらばら、残されたエピソードからうかがい知れる人格は支離滅裂、複数説まである御仁である。
ストラトフォード時代、年上のアンとの恋愛沙汰も、妊娠させた上逃げ出すつもりだったという説もあるし、彼女との結婚も先方の親族の脅迫に遭ってしぶしぶだったという話もある。もちろん、純愛のように描く人も多いけどね。ロンドンに出てからの舞台創作での天才の発揮はさすがだが、借金はなかなか返さないわ、逆に自分の貸した金は容赦なく取り立てるわ、おいおい、お前はシャイロックか?揚げ句の果てに妻に遺言で残したものは、「二番目に良いベッド」のみ。これいい奴かと問われれば、やっぱりヤな奴だろう。僕は間違っていますでしょうか?
でも、「恋におちたシェイクスピア」は、なかなか良い映画だった。アカデミー賞を何本も独占するほどの傑作とは思わないが、愛に満ちた佳品である。
内容は「ロミオとジュリエット」誕生の裏話といった、割と他愛のないものなのだが、SFXを駆使した映像で、目を驚かせるような作品が多い中、何か舞台劇を作るように映画を作る、そういう手作りの喜びのようなものがフィルムの中に満ち溢れていた。いわば映画制作そのものへの愛、に対してオスカーは与えられたのだと思う。
グウィネス・パルトロウの男装、ヌードも目に楽しいのだけど、シェイクスピアを演じたジョゼフ・ファインズの演技が、なかなか説得力があった。つまり、僕の中にある「シェイクスピア=嫌な奴」というイメージと必ずしも相反さないのである。いったん思い込んだらまっしぐら、しかもどこに行くのか分からない。そんなキャラクターは、その場の思いつきでころころ変わるかに見える天才の一端を、確かに捉えていたのではないか、と思った。
先のご婦人、彼にまつわるいろんなエピソードをしっかり知ったうえで、シェイクスピアに恋していたのだ。変幻自在、神出鬼没。善悪の両義性。聖性と俗物。いやぁ、四百年の時を経て、これだけ女性を魅了する男というのは、やっぱりすごい。見習わなければならぬ。僕なども、よく嫌な奴と言われるが、これは褒め言葉なのだ。
とにかく。恋する女性の相手のことは、決して悪く言ってはいけません。
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9/30/2009
ドラキュラ②
前回、ドラキュラのことを書いていて、違う読み方も出来ることに気が付いた。ドラキュラと犠牲者の関係が互酬的であることだ。
少し詳しく書こう。彼らの関係が互酬的であるとはつまり、搾取的な関係がないということだ。なぜならドラキュラの欲望は、犠牲者に必ず転移するからである(分かりやすくするため、ここでは男性犠牲者のことは忘れる)。
犠牲者は必ず誘惑者となり、ドラキュラの出現を待ち望む。もちろんドラキュラは、相手から一方的に血液を奪うわけだから、略奪者であるのだけど、クリストファー・リーがよく演じたドラキュラなども、犠牲者の誘惑に会って目を充血させて噛みつくシーンなど、ときになぜかこっけいな印象を抱かせるときさえある。
犠牲者の顔はときに恍惚に輝き、これはドラキュラの生存(?)に不可欠な血液を与える悦び、あるいは血液を奪われることで彼を支配する征服欲の充実とも言えよう。また、犠牲者が最終的に不死を得ることを考えれば、どの点をとっても、二人の関係は互酬的だと言わざるをえない。
ひるがえって、人間男女の世界。僕は決してフェミニズムには明るくないが、男による女性からの性の搾取という観点は、今も一大テーマとして有効だと思う。夫が一方的に妻から性的快楽を得て、彼女の本当のところには無頓着なんて話題は、女性週刊誌などにゴマンと載っている。もちろん、結婚制度にしがみつく女性のほうが、なんて反論もあるが、背景にある社会事情が・・・とイタチごっこ。快楽の度合いを比べれば、男のそれに対して女性の快楽は十倍、いやきっと百倍、搾取されているのはむしろ男の方で・・・なんて、おっとこれは言わぬが花か。
ともかく、そうしてコト終わり、妊娠でもするものなら、その肉体的負担は女性が一方的に引き受けざるを得ないのは事実。あるいは、特に子供が欲しいわけでもない女性に、月経がなかなか来ないときの恐怖というのは、特に彼女が未婚の場合、大変なものであるらしい。「性の搾取」という言葉も、それなりに説得力があるんだよなあ。
さてドラキュラと犠牲者の間に愛はあるのか。
僕には、彼らの間に人間的な意味での愛が成り立つとは思えない。
「愛とは奪うことだ」という言葉があるが、人間界の愛というのは、二人の関係における闘争の中のひずみのようなものから生まれるものではないかという気がするからだ。つまりドラキュラとその犠牲者のように互酬的な関係は、何というか、欲望が相互に補完しあうだけで、広がりを持たないように思える。与え、奪い、支配する、あるいはされる。この均衡が微妙なところに人間の愛というのが成り立つと思うのだけど。
ところで今回、フェミニズム批判ではないよ、念のため。
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少し詳しく書こう。彼らの関係が互酬的であるとはつまり、搾取的な関係がないということだ。なぜならドラキュラの欲望は、犠牲者に必ず転移するからである(分かりやすくするため、ここでは男性犠牲者のことは忘れる)。
犠牲者は必ず誘惑者となり、ドラキュラの出現を待ち望む。もちろんドラキュラは、相手から一方的に血液を奪うわけだから、略奪者であるのだけど、クリストファー・リーがよく演じたドラキュラなども、犠牲者の誘惑に会って目を充血させて噛みつくシーンなど、ときになぜかこっけいな印象を抱かせるときさえある。
犠牲者の顔はときに恍惚に輝き、これはドラキュラの生存(?)に不可欠な血液を与える悦び、あるいは血液を奪われることで彼を支配する征服欲の充実とも言えよう。また、犠牲者が最終的に不死を得ることを考えれば、どの点をとっても、二人の関係は互酬的だと言わざるをえない。
ひるがえって、人間男女の世界。僕は決してフェミニズムには明るくないが、男による女性からの性の搾取という観点は、今も一大テーマとして有効だと思う。夫が一方的に妻から性的快楽を得て、彼女の本当のところには無頓着なんて話題は、女性週刊誌などにゴマンと載っている。もちろん、結婚制度にしがみつく女性のほうが、なんて反論もあるが、背景にある社会事情が・・・とイタチごっこ。快楽の度合いを比べれば、男のそれに対して女性の快楽は十倍、いやきっと百倍、搾取されているのはむしろ男の方で・・・なんて、おっとこれは言わぬが花か。
ともかく、そうしてコト終わり、妊娠でもするものなら、その肉体的負担は女性が一方的に引き受けざるを得ないのは事実。あるいは、特に子供が欲しいわけでもない女性に、月経がなかなか来ないときの恐怖というのは、特に彼女が未婚の場合、大変なものであるらしい。「性の搾取」という言葉も、それなりに説得力があるんだよなあ。
さてドラキュラと犠牲者の間に愛はあるのか。
僕には、彼らの間に人間的な意味での愛が成り立つとは思えない。
「愛とは奪うことだ」という言葉があるが、人間界の愛というのは、二人の関係における闘争の中のひずみのようなものから生まれるものではないかという気がするからだ。つまりドラキュラとその犠牲者のように互酬的な関係は、何というか、欲望が相互に補完しあうだけで、広がりを持たないように思える。与え、奪い、支配する、あるいはされる。この均衡が微妙なところに人間の愛というのが成り立つと思うのだけど。
ところで今回、フェミニズム批判ではないよ、念のため。
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9/24/2009
ドラキュラ①
友達だったフレンチの小娘が言った。「欲望が無ければ、愛は成り立たないわ。」
名言だと思った。これだから、フランスという国は侮れない。奥が深い。「愛が無ければ、欲望は生まれない」ではないのだ。では逆に、「欲望があれば愛は成り立つか」というと、疑問のあるところだし、また「愛があれば欲望は生まれるか」といえば、微妙なところであろう。いずれにせよ、まず欲望ありき、である。
ブラム・ストーカーが創作し、その後名優クリストファー・リーなどの怪演によって広く知られるところとなった吸血鬼ドラキュラは、純粋欲望とも言うべき存在である。犠牲者ののどに毒牙を突き立てて、血を啜りたい、という欲望である。
吸血こうもりや蛭といった、吸血行為そのものが自己保存の手段である生物が現実に存在することを僕たちは知っていて、やはりおぞましいものとして認識するわけだが、それらとドラキュラを分かつのは、そこにエロティシズムがあるかないかだろう。エロティシズムとは、完全に人間のものだ。そういった点で、ドラキュラは極めて人間的である。
では、ドラキュラのエロティシズムとは、果たして何だろう。①人間の形をしたものが、人間の生血を啜るという背徳性 ②犠牲者をやがては死に追いやる、という生への反逆。と思いつくが、この二点、猟奇的ではあるが、必ずしもエロティックではない。僕は、③犠牲者-特に女性-が、いったん血を吸われるや、積極的にドラキュラを欲する誘惑者となること-が最重要だと思う。ドラキュラから、欲望が転移したのだ。
初めて作品が世に出た時代、女性は、自ら欲望する存在とはみなされていなかったはずだ。言い換えれば、欲望を持つことを禁じられていた女性が、犠牲者となると同時に次には誘惑者に変身する点が、当時の良俗に対する挑戦であり、またドラキュラのストーリーの持つエロティシズムであったに違いない。だから、女性も実は積極的に欲望する存在である、と広く認知された現代のような時代、このストーリーが、そのエロティシズムの光をいくぶんか失わざるを得ないのは当然のことだと思う。
やや古い映画になるが、コッポラ監督の描いたドラキュラが、失った妻をひたすら慕い続ける純愛ストーリーとなったのも無理はない。格調のある作品ではあったけれども、ドラキュラの本質は、むしろかつてハマー・フィルムなどが制作したB級C級映画にこそ、よりよく表現されていたと思う。
しかしながら、ドラキュラとその犠牲者の間には愛が成り立つのかなぁ。例の小娘に尋ねてみたいところだけれど。ところで、この娘とは「友達だった」と書いた。もちろん友達以上にはなれなかったからだし、そして今は友達ですらないからだ。
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名言だと思った。これだから、フランスという国は侮れない。奥が深い。「愛が無ければ、欲望は生まれない」ではないのだ。では逆に、「欲望があれば愛は成り立つか」というと、疑問のあるところだし、また「愛があれば欲望は生まれるか」といえば、微妙なところであろう。いずれにせよ、まず欲望ありき、である。
ブラム・ストーカーが創作し、その後名優クリストファー・リーなどの怪演によって広く知られるところとなった吸血鬼ドラキュラは、純粋欲望とも言うべき存在である。犠牲者ののどに毒牙を突き立てて、血を啜りたい、という欲望である。
吸血こうもりや蛭といった、吸血行為そのものが自己保存の手段である生物が現実に存在することを僕たちは知っていて、やはりおぞましいものとして認識するわけだが、それらとドラキュラを分かつのは、そこにエロティシズムがあるかないかだろう。エロティシズムとは、完全に人間のものだ。そういった点で、ドラキュラは極めて人間的である。
では、ドラキュラのエロティシズムとは、果たして何だろう。①人間の形をしたものが、人間の生血を啜るという背徳性 ②犠牲者をやがては死に追いやる、という生への反逆。と思いつくが、この二点、猟奇的ではあるが、必ずしもエロティックではない。僕は、③犠牲者-特に女性-が、いったん血を吸われるや、積極的にドラキュラを欲する誘惑者となること-が最重要だと思う。ドラキュラから、欲望が転移したのだ。
初めて作品が世に出た時代、女性は、自ら欲望する存在とはみなされていなかったはずだ。言い換えれば、欲望を持つことを禁じられていた女性が、犠牲者となると同時に次には誘惑者に変身する点が、当時の良俗に対する挑戦であり、またドラキュラのストーリーの持つエロティシズムであったに違いない。だから、女性も実は積極的に欲望する存在である、と広く認知された現代のような時代、このストーリーが、そのエロティシズムの光をいくぶんか失わざるを得ないのは当然のことだと思う。
やや古い映画になるが、コッポラ監督の描いたドラキュラが、失った妻をひたすら慕い続ける純愛ストーリーとなったのも無理はない。格調のある作品ではあったけれども、ドラキュラの本質は、むしろかつてハマー・フィルムなどが制作したB級C級映画にこそ、よりよく表現されていたと思う。
しかしながら、ドラキュラとその犠牲者の間には愛が成り立つのかなぁ。例の小娘に尋ねてみたいところだけれど。ところで、この娘とは「友達だった」と書いた。もちろん友達以上にはなれなかったからだし、そして今は友達ですらないからだ。
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9/14/2009
キャンディ・キャンディ
ずっと気になっていたのだ。放映後二十年以上も経とうというのに。二人の年の差だ。
「キャンディ・キャンディ」は、アメリカとイギリスを主な舞台とした大河ドラマだ。紙面の制限上、詳しくストーリーを述べる余裕がないので、今回は分かる人にしか分からないが、勘弁していただきたい。ナニ、どうせヨタ話である。それでも一言で言えば、「足長おじさん」と「君の名は」をミックスしたようなメロドラマなのですな。
僕なんぞ、毎週見ていましたよ。初恋の相手アンソニーが、落馬が元で死んでしまうところなど、涙なくしては語れない。テリーとの徹底的なすれ違いは、思わず「ほら、キャンディ、テリーはすぐ後ろにいるよ!」と叫びたいほどだった。
あれほど盛り上がったストーリーなのに、最後はなんだか尻切れトンボ。どうやらキャンディはアルバートさん=ウィリアム大おじ様と結ばれるような感じなのだが。テレビでは最終回、なんと登場人物皆でのティーパーティでお茶を濁してしまったのだ。何かとってつけたような、文脈にそぐわない結末だった。そしてまたいかにアルバートさんが「丘の上の王子様」だったとはいえ、この二人の結びつきは、中学の一番人気の女の子を高校生に取られたような、いや、大学生か、社会人か。そんな口惜しさとともに、何かざらっとした後味が残ったのである。
キャンディとアンソニーの恋は淡いもので当然肉体関係はない。テリーとのからみも性的交渉をイメージさせるシーンはなかったと思う。
ここで、キャンディは孤児だった、という背景が気になる。つまり、彼女が無意識的にせよ求めていたのは、アンソニーのような優しいが女性的な男ではなく、またテリーのように行動力には富むが包容力に欠ける男でもなく、実は父のような男だったのではないか。若き「恋人」たちとの悲恋は、実は彼女自身が招きよせていたものではなかったか。
アルバートさんとの関係が結局ムニャムニャという感じになったのは、ハッキリ描いた場合、当然そのあとに続くと予想される二人の性的結合のイメージが、やはりテレビ枠では収まりきれないものだったからだと思う。それは直接に、父との性的関係を暗示するものだからだ。
最終回のティーパーティは、自分たちが描いているものが、実はインセスト・タブーへの侵犯であると気づいた制作者たちの苦肉の策であろう。原作ではもう少し、踏み込んでいたように思う。
しかし、こうも考える。あのアルバートさんに、果たしてベッドの上でキャンディを愛撫することが可能だろうか?すると-。
ファーザー・コンプレックスを抱えたまま肉体的に成熟したキャンディは、その後どこをさまよったのだろうか。
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「キャンディ・キャンディ」は、アメリカとイギリスを主な舞台とした大河ドラマだ。紙面の制限上、詳しくストーリーを述べる余裕がないので、今回は分かる人にしか分からないが、勘弁していただきたい。ナニ、どうせヨタ話である。それでも一言で言えば、「足長おじさん」と「君の名は」をミックスしたようなメロドラマなのですな。
僕なんぞ、毎週見ていましたよ。初恋の相手アンソニーが、落馬が元で死んでしまうところなど、涙なくしては語れない。テリーとの徹底的なすれ違いは、思わず「ほら、キャンディ、テリーはすぐ後ろにいるよ!」と叫びたいほどだった。
あれほど盛り上がったストーリーなのに、最後はなんだか尻切れトンボ。どうやらキャンディはアルバートさん=ウィリアム大おじ様と結ばれるような感じなのだが。テレビでは最終回、なんと登場人物皆でのティーパーティでお茶を濁してしまったのだ。何かとってつけたような、文脈にそぐわない結末だった。そしてまたいかにアルバートさんが「丘の上の王子様」だったとはいえ、この二人の結びつきは、中学の一番人気の女の子を高校生に取られたような、いや、大学生か、社会人か。そんな口惜しさとともに、何かざらっとした後味が残ったのである。
キャンディとアンソニーの恋は淡いもので当然肉体関係はない。テリーとのからみも性的交渉をイメージさせるシーンはなかったと思う。
ここで、キャンディは孤児だった、という背景が気になる。つまり、彼女が無意識的にせよ求めていたのは、アンソニーのような優しいが女性的な男ではなく、またテリーのように行動力には富むが包容力に欠ける男でもなく、実は父のような男だったのではないか。若き「恋人」たちとの悲恋は、実は彼女自身が招きよせていたものではなかったか。
アルバートさんとの関係が結局ムニャムニャという感じになったのは、ハッキリ描いた場合、当然そのあとに続くと予想される二人の性的結合のイメージが、やはりテレビ枠では収まりきれないものだったからだと思う。それは直接に、父との性的関係を暗示するものだからだ。
最終回のティーパーティは、自分たちが描いているものが、実はインセスト・タブーへの侵犯であると気づいた制作者たちの苦肉の策であろう。原作ではもう少し、踏み込んでいたように思う。
しかし、こうも考える。あのアルバートさんに、果たしてベッドの上でキャンディを愛撫することが可能だろうか?すると-。
ファーザー・コンプレックスを抱えたまま肉体的に成熟したキャンディは、その後どこをさまよったのだろうか。
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9/08/2009
エリザベスとメアリー②
メアリー・スチュアートが君臨した時代のスコットランドの歴史は、他の時代に際立って面白い。同時期のイングランドに、エリザベス一世という強烈な個性があったことも一因であろう。二人の女性の人生は、ほぼ対極にあるし、イメージもまたしかり。
メアリーもエリザベスも、いくつかの肖像画が今に残されているが、この二人の、肖像画から受ける印象は、まったく違う。
メアリーの肖像は、どれもこれも美しい、それは気品に満ちた「素」の美しさだ。余計な飾りがない。フランス宮廷で身につけた、洗練されたマナー・教養。そういったものを絵の中から感じ取ることが出来る。要するに、美しい女性がそこに在るのだ。
それに対し、女王エリザベスの肖像画から受ける印象は、盟主としての「威厳」あるいは「威圧感」である。女性ではなく、君主がいる。
民衆に追われてイングランドに亡命してきたメアリーの、長い幽閉生活ののちの処刑は、結果として、まさにイングランドの存亡の危機を呼んだ。スペインの無敵艦隊の襲来である。カトリック勢力にとって、メアリーは、いわば失地回復のための切り札だったからだ。これを乗り切ったのちのイングランドには、「エリザベス信仰」といえる現象が起こったという。
女王エリザベスの肖像から感じるのは、まさしく、そういった超越を目指す意地ともいうべきものだ。彼女の肖像は自己完結している。
再びメアリーの肖像に目を転じると、気品と同時に、そのはかなげな風情から来るのだろうか、彼女の隣に、豪快で自信にあふれた男を立たせたいような誘惑に駆られるのは、僕だけだろうか。
肖像画で見る限り、ボズウェルというのは、そういう印象を与える男だ。
自国民に石をもって追われながらメアリーと別れた彼は、各地を転戦、最後はデンマークの牢獄で狂死する。ボズウェルに、メアリーへの愛情がひとかけらでもあったかどうかは疑わしい。常に冷静だとか野心的だとか、そういった言葉で描かれる男なのだ。メアリーは、そんな男への恋にすべてを賭けて狂ったのだ。
近年の映画「エリザベス」は良く出来た映画だった。そこに描かれた彼女は、一途な、自分の義務に忠実な強い人間だった。しかし、恋に狂える女ではなかった。
女には二つある。恋に狂える女と、恋に狂わない女と。どちらも能力なのだ。一方、ひょっとすると、すべての男は、女を恋に狂わせることが出来るのかもしれない。でも、その女が目の前に開いた闇の中、どこまでも転戦できる男と逃げ出す男と、男にはその二つのタイプしかない。
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メアリーもエリザベスも、いくつかの肖像画が今に残されているが、この二人の、肖像画から受ける印象は、まったく違う。
メアリーの肖像は、どれもこれも美しい、それは気品に満ちた「素」の美しさだ。余計な飾りがない。フランス宮廷で身につけた、洗練されたマナー・教養。そういったものを絵の中から感じ取ることが出来る。要するに、美しい女性がそこに在るのだ。
それに対し、女王エリザベスの肖像画から受ける印象は、盟主としての「威厳」あるいは「威圧感」である。女性ではなく、君主がいる。
民衆に追われてイングランドに亡命してきたメアリーの、長い幽閉生活ののちの処刑は、結果として、まさにイングランドの存亡の危機を呼んだ。スペインの無敵艦隊の襲来である。カトリック勢力にとって、メアリーは、いわば失地回復のための切り札だったからだ。これを乗り切ったのちのイングランドには、「エリザベス信仰」といえる現象が起こったという。
女王エリザベスの肖像から感じるのは、まさしく、そういった超越を目指す意地ともいうべきものだ。彼女の肖像は自己完結している。
再びメアリーの肖像に目を転じると、気品と同時に、そのはかなげな風情から来るのだろうか、彼女の隣に、豪快で自信にあふれた男を立たせたいような誘惑に駆られるのは、僕だけだろうか。
肖像画で見る限り、ボズウェルというのは、そういう印象を与える男だ。
自国民に石をもって追われながらメアリーと別れた彼は、各地を転戦、最後はデンマークの牢獄で狂死する。ボズウェルに、メアリーへの愛情がひとかけらでもあったかどうかは疑わしい。常に冷静だとか野心的だとか、そういった言葉で描かれる男なのだ。メアリーは、そんな男への恋にすべてを賭けて狂ったのだ。
近年の映画「エリザベス」は良く出来た映画だった。そこに描かれた彼女は、一途な、自分の義務に忠実な強い人間だった。しかし、恋に狂える女ではなかった。
女には二つある。恋に狂える女と、恋に狂わない女と。どちらも能力なのだ。一方、ひょっとすると、すべての男は、女を恋に狂わせることが出来るのかもしれない。でも、その女が目の前に開いた闇の中、どこまでも転戦できる男と逃げ出す男と、男にはその二つのタイプしかない。
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9/03/2009
エリザベスとメアりー①
世の中には、おいおい、ちょっと待てよと言いたくなるような恋があるもので、このケースもその類に入る。メアリー・クイーン・オブ・スコッツである。
メアリー・スチュアート。同時期にイングランドの女王であったエリザベス1世と、永遠のライバルのように言われるが、統治者として見たとき、残念ながらメアリーに歩はない。しかし彼女の波乱万丈な人生は、人々の記憶にとどめられるべきものだと思う。
メアリーは、生後すぐスコットランド女王に即位したのち六歳でフランス皇太子と婚約、彼の地に送られる。やがてフランス宮廷の洗練された文化を身につけ、その美貌と才能に対する賛辞は惜しまれることがなかった。十七歳で結婚。フランス王妃となるも、夫のフランソワ二世の急死で十八歳にして未亡人となり、故国へ帰ってくる。
帰国後の治世は、力を伸ばすプロテスタント勢力とも折り合いをつけながら、まずは平穏。ところが二十三歳のとき、周囲の猛烈な反対を押し切り十九歳の青年ダーンリ卿と結婚したことから、彼女の人生は呪われたものとなってしまう。
少し話が長くなるが、隣国イングランドは当時、宗教改革をまがりなりにも達成したとはいえ、まだまだ政情は不安定。何といっても、カトリックに弓を引いたヘンリー八世自身が、いったんエリザベスを非嫡子と認じてしまっているから、エリザベスはローマから見ると非合法の君主。正当なイングランドの王位継承者は、同じ血を受け継ぎながらスコットランド女王でもあるメアリーという、実に複雑な状況にあった。メアリーの結婚問題は、当時のヨーロッパにあって、極めて政治的な意味合いを持つものだったのである。
ところで、そもそも最初の夫であったフランソワだが、メアリーにとっては、共に育ったいわば幼馴染み。彼女が十七歳で結婚したとき、彼はまだ十五歳だった。子供の頃から病弱で、くる病のため性的には不能だったのではないか、という説もあるようだ。もし事実だとすると、ダーンリは彼女にとって、肉体を伴ったいわば初めての男性である。持てる権力の全てを使って、彼女は初恋に賭けた。
ヨーロッパ中の期待を裏切って夫としたダーンリだが、「王」となるや横暴を極め、たちまちのうちに無能を露呈。揚げ句の果てには、批判にさらされ傷心のメアリーの寵愛を受けていた音楽家リッツィオを、仲間と謀って彼女の目前で刺殺。メアリーの心はやがて、剛毅な実力者ボズウェル伯に移ってしまう。
そしてダーンリは暗殺され、直後にメアリーはボズウェルと結婚する。民衆は、ダーンリ殺害を二人の共謀と疑わず、ついに追われる身に・・・。彼女の恋は、今度は持てるもの全てを捨てての恋となった。
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メアリー・スチュアート。同時期にイングランドの女王であったエリザベス1世と、永遠のライバルのように言われるが、統治者として見たとき、残念ながらメアリーに歩はない。しかし彼女の波乱万丈な人生は、人々の記憶にとどめられるべきものだと思う。
メアリーは、生後すぐスコットランド女王に即位したのち六歳でフランス皇太子と婚約、彼の地に送られる。やがてフランス宮廷の洗練された文化を身につけ、その美貌と才能に対する賛辞は惜しまれることがなかった。十七歳で結婚。フランス王妃となるも、夫のフランソワ二世の急死で十八歳にして未亡人となり、故国へ帰ってくる。
帰国後の治世は、力を伸ばすプロテスタント勢力とも折り合いをつけながら、まずは平穏。ところが二十三歳のとき、周囲の猛烈な反対を押し切り十九歳の青年ダーンリ卿と結婚したことから、彼女の人生は呪われたものとなってしまう。
少し話が長くなるが、隣国イングランドは当時、宗教改革をまがりなりにも達成したとはいえ、まだまだ政情は不安定。何といっても、カトリックに弓を引いたヘンリー八世自身が、いったんエリザベスを非嫡子と認じてしまっているから、エリザベスはローマから見ると非合法の君主。正当なイングランドの王位継承者は、同じ血を受け継ぎながらスコットランド女王でもあるメアリーという、実に複雑な状況にあった。メアリーの結婚問題は、当時のヨーロッパにあって、極めて政治的な意味合いを持つものだったのである。
ところで、そもそも最初の夫であったフランソワだが、メアリーにとっては、共に育ったいわば幼馴染み。彼女が十七歳で結婚したとき、彼はまだ十五歳だった。子供の頃から病弱で、くる病のため性的には不能だったのではないか、という説もあるようだ。もし事実だとすると、ダーンリは彼女にとって、肉体を伴ったいわば初めての男性である。持てる権力の全てを使って、彼女は初恋に賭けた。
ヨーロッパ中の期待を裏切って夫としたダーンリだが、「王」となるや横暴を極め、たちまちのうちに無能を露呈。揚げ句の果てには、批判にさらされ傷心のメアリーの寵愛を受けていた音楽家リッツィオを、仲間と謀って彼女の目前で刺殺。メアリーの心はやがて、剛毅な実力者ボズウェル伯に移ってしまう。
そしてダーンリは暗殺され、直後にメアリーはボズウェルと結婚する。民衆は、ダーンリ殺害を二人の共謀と疑わず、ついに追われる身に・・・。彼女の恋は、今度は持てるもの全てを捨てての恋となった。
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8/27/2009
ソフィ・ライダーのうさぎ
昔、太宰治の短編「カチカチ山」を読んでいて、その慧眼にうなったことがあった。例のうさぎを処女、狸を冴えない中年男と断じているのだ。狸は御存知のように、一方的に断罪されるのだが、これは何より中年男が処女うさぎに恋をしたからこそ生まれた結末だというのである。いかにも太宰の被虐的なユーモアもさることながら、ありそうなことである。
うさぎ、という生物は不思議な存在で、妙に女性を連想させる。バニーガールのコンセプトを発明した人物など、天才ではないかとひたすらひれ伏したくなる。コスプレであるにもかかわらず、すっかり市民権を得ているのは、やっぱりそれくらい万人の心の底にまで響いたからだろう。
ソフィ・ライダーというロンドン出身の女流アーティストがいる。本来は彫刻家なのだが、幅広い活躍をしていて、ここ数年来、僕は彼女の造るイメージに魅かれている。
彼女の重要なモチーフに、ミノタウロスとうさぎがある。それぞれ男性・女性の象徴というのは、カリカチュアあるいはデフォルメされた身体的特徴からも明らかだが、描き方が何かちょっと違うんだな、他のアーティストとは。
世界中の民間伝承に登場するうさぎを、騒々しいトリックスターと捉え、彼らの善悪の両義的性格を論じたのは、人類学者の山口昌男だ。イナバの白うさぎもそうだし、太宰のうさぎもこの範疇に入りそうだ。
ライダーの描くうさぎには、それに近いものも無くはないが、何か不思議な静謐さが漂う。彼女のうさぎは、あるときは猟犬とおぼしき犬を抱きかかえ、またあるときは手のひらに乗せた子うさぎを見つめ、またミノタウロスと並んでいすに腰掛ける。四つん這いになって歩く「クローリング・レディ・ヘア」なんて体はまるっきり人間の女性だから、随分エロチックなはずなのに、むしろそれらは追憶の中にあるイメージのように心優しい。それは彼女の描くミノタウロスにも共通する。不思議な世界なのである。
色々考えて思い至ったのだが、たとえば晩年のピカソもよくミノタウロスを描いたが、それは欲望をそのまま体現したような存在だった。それに対してライダーのミノタウロスは決して勃起していない。つまり男性的というより、子供から見た「父」的存在なのだ。そして彼女のうさぎは女性というより「母」的存在なのだろう。だからミノタウロスとレディ・ヘアが並ぶとき、それは、子供の見た静かな夫婦愛というよな趣を醸し出すのではないか。
僕もうさぎたちが大好きなのだけど、若きハツラツうさぎたちは、僕に見向きもしてくれない。まあその分、ヒドイ目に遭う可能性もないわけだから、ありがたいありがたいと思わなくっちゃ、ね。
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うさぎ、という生物は不思議な存在で、妙に女性を連想させる。バニーガールのコンセプトを発明した人物など、天才ではないかとひたすらひれ伏したくなる。コスプレであるにもかかわらず、すっかり市民権を得ているのは、やっぱりそれくらい万人の心の底にまで響いたからだろう。
ソフィ・ライダーというロンドン出身の女流アーティストがいる。本来は彫刻家なのだが、幅広い活躍をしていて、ここ数年来、僕は彼女の造るイメージに魅かれている。
彼女の重要なモチーフに、ミノタウロスとうさぎがある。それぞれ男性・女性の象徴というのは、カリカチュアあるいはデフォルメされた身体的特徴からも明らかだが、描き方が何かちょっと違うんだな、他のアーティストとは。
世界中の民間伝承に登場するうさぎを、騒々しいトリックスターと捉え、彼らの善悪の両義的性格を論じたのは、人類学者の山口昌男だ。イナバの白うさぎもそうだし、太宰のうさぎもこの範疇に入りそうだ。
ライダーの描くうさぎには、それに近いものも無くはないが、何か不思議な静謐さが漂う。彼女のうさぎは、あるときは猟犬とおぼしき犬を抱きかかえ、またあるときは手のひらに乗せた子うさぎを見つめ、またミノタウロスと並んでいすに腰掛ける。四つん這いになって歩く「クローリング・レディ・ヘア」なんて体はまるっきり人間の女性だから、随分エロチックなはずなのに、むしろそれらは追憶の中にあるイメージのように心優しい。それは彼女の描くミノタウロスにも共通する。不思議な世界なのである。
色々考えて思い至ったのだが、たとえば晩年のピカソもよくミノタウロスを描いたが、それは欲望をそのまま体現したような存在だった。それに対してライダーのミノタウロスは決して勃起していない。つまり男性的というより、子供から見た「父」的存在なのだ。そして彼女のうさぎは女性というより「母」的存在なのだろう。だからミノタウロスとレディ・ヘアが並ぶとき、それは、子供の見た静かな夫婦愛というよな趣を醸し出すのではないか。
僕もうさぎたちが大好きなのだけど、若きハツラツうさぎたちは、僕に見向きもしてくれない。まあその分、ヒドイ目に遭う可能性もないわけだから、ありがたいありがたいと思わなくっちゃ、ね。
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8/20/2009
戦場のメリークリスマス
前回「オペラ座の怪人」について、ひとつのキスがいかに荒ぶる魂を鎮め得る力を持つか、というようなことを書いたが、映画の中に、似たようなシチュエーションを思い出した。「戦場のメリークリスマス」だ。
「戦メリ」は、ヴァン・デル・ポストの原作をほぼ忠実に映画化した、大島渚監督の代表作のひとつ。デビッド・ボウイ、坂本龍一、トム・コンティ、ビートたけしといった豪華キャストも話題を呼んだ。
原作は確か三部から成っていたが、これをひとつにまとめ上げたものだから、映画は構成が少しつらかったと思うし、ボウイと坂本は、主役としては少し線が細かった。それでも力作であったことは間違いない。
ときは第二次世界大戦。日本の捕虜収容所を舞台にした、日本対西洋(特にイギリス)の異文化接触モノだ。似たような状況設定としては、デビッド・リーン監督の「戦場にかける橋」があるが、こちらは戦争とヒューマニズムといった大きなテーマを扱っていて、比較すると「戦メリ」のテーマは、もう少し繊細微妙だったと思う。
さて、問題のシーン。坂本演じるヨノイ大尉が、思うようにコントロールできない捕虜たちに業を煮やして、中のひとりを日本刀で処刑しようとする。ボウイ扮するセリアズ少佐がヨノイに歩み寄り、彼の両頬(正確には耳に近いところ)にキスをするのだ。瞬間、陶然とするヨノイ。そして彼は刀を振り下ろす力を失い、卒倒してしまうのだ。
当時、ヨノイとセリアズの間に通う、ある種のホモセクシャルな感情が多く語られたし、映画の基底音から考えても、演出意図はそこにあったと思う。
でも、そこまで深読みせずとも、「ああ、キスというのはかくも破壊力があるものなのだなあ」と単純に感心していてもいいんじゃないかな。官能は暴力よりも強し、である。
そういえば、豊臣秀吉がねねだか誰かにあてた手紙で「早くお前のところに戻って、口を吸いたい」などと書いた物が残っているとか。血なまぐさい時代だけに、はっと息を呑む迫力があるし、手紙を受け取った本人も、うっとりと秀吉のことを思ったに違いない。「お猿・・・」。
「ニューシネマパラダイス」という映画があった。前半があまりに美しくて、後半はなんだか散漫な印象しかないのだが、最後の最後が良かった。過去の映画のキスシーンのオンパレードである。ここだけで、胸の中は、シアワセいっぱいになった。
僕もキスの効用を知っている。傍らの彼女のおしゃべりがあまりにも一方的で、いいかげんな相づちをうつのにも疲れたとき、キスをするのだ。おしゃべりはぴたりと止まり、ほんのひとときでも心安らぐ時間。官能は、言葉の「暴力」よりも強し、である。そのあとがまた大変だけどね。
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「戦メリ」は、ヴァン・デル・ポストの原作をほぼ忠実に映画化した、大島渚監督の代表作のひとつ。デビッド・ボウイ、坂本龍一、トム・コンティ、ビートたけしといった豪華キャストも話題を呼んだ。
原作は確か三部から成っていたが、これをひとつにまとめ上げたものだから、映画は構成が少しつらかったと思うし、ボウイと坂本は、主役としては少し線が細かった。それでも力作であったことは間違いない。
ときは第二次世界大戦。日本の捕虜収容所を舞台にした、日本対西洋(特にイギリス)の異文化接触モノだ。似たような状況設定としては、デビッド・リーン監督の「戦場にかける橋」があるが、こちらは戦争とヒューマニズムといった大きなテーマを扱っていて、比較すると「戦メリ」のテーマは、もう少し繊細微妙だったと思う。
さて、問題のシーン。坂本演じるヨノイ大尉が、思うようにコントロールできない捕虜たちに業を煮やして、中のひとりを日本刀で処刑しようとする。ボウイ扮するセリアズ少佐がヨノイに歩み寄り、彼の両頬(正確には耳に近いところ)にキスをするのだ。瞬間、陶然とするヨノイ。そして彼は刀を振り下ろす力を失い、卒倒してしまうのだ。
当時、ヨノイとセリアズの間に通う、ある種のホモセクシャルな感情が多く語られたし、映画の基底音から考えても、演出意図はそこにあったと思う。
でも、そこまで深読みせずとも、「ああ、キスというのはかくも破壊力があるものなのだなあ」と単純に感心していてもいいんじゃないかな。官能は暴力よりも強し、である。
そういえば、豊臣秀吉がねねだか誰かにあてた手紙で「早くお前のところに戻って、口を吸いたい」などと書いた物が残っているとか。血なまぐさい時代だけに、はっと息を呑む迫力があるし、手紙を受け取った本人も、うっとりと秀吉のことを思ったに違いない。「お猿・・・」。
「ニューシネマパラダイス」という映画があった。前半があまりに美しくて、後半はなんだか散漫な印象しかないのだが、最後の最後が良かった。過去の映画のキスシーンのオンパレードである。ここだけで、胸の中は、シアワセいっぱいになった。
僕もキスの効用を知っている。傍らの彼女のおしゃべりがあまりにも一方的で、いいかげんな相づちをうつのにも疲れたとき、キスをするのだ。おしゃべりはぴたりと止まり、ほんのひとときでも心安らぐ時間。官能は、言葉の「暴力」よりも強し、である。そのあとがまた大変だけどね。
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8/12/2009
オペラ座の怪人
果たして成仏できたのかどうか。それが問題だ。
つい先日、日本から知人が来たので、まあめったにないことと奮発してミュージカル「オペラ座の怪人」を見に行った。これが知人であって、愛人でないところがなんとも色気がないのだけれど、怪人でも変人でもなかったので、まあいいか。
数年前にこの舞台、僕は一度見ていて、そのときは大して感心しなかったのだが、今回は素晴らしく良かった。ヒロインの歌姫クリスティーン役の女優は今ひとつだが、ファントム役のスコット・デイヴィースという役者が見事で、僕は不覚にも涙が出そうになった。
このデイヴィース氏、憑依体質なのだろう、ほら、たまにいるでしょう、放っておくと一人でしゃべって、勝手にどんどん何かにとりつかれていく人。きっと、そういうタイプなのだ。とにかく、同じ演目でも演者によって、こんなにも印象が変わってくるのだと改めて実感した。
「オペラ座の怪人」は、ファントムと、彼に魅入られた歌姫クリスティーン、そして彼女に恋するラウルとの三角関係を描いた恋愛ドラマである。
愛するクリスティーンを守らん(?)がため、ファントムにより殺人が繰り返されたのち、舞台はクライマックス。助命を乞うクリスティーンを無視して、ファントムはラウルの首にロープをかけ今にも彼を殺してしまおうとする。彼女もラウルを愛しながらもまた、ファントムの魔力から逃れられないのだ。ファントムは悲痛な声で彼女に叫ぶ。「(どちらをえらぶのか)決断しろ!」。
クリスティーンは、ファントムの元へ寄りキスし、強く抱擁する。ファントムはしかし、抱き返せない。再びキス。やはり彼の手は震えるだけで、とうとうあれほど愛した彼女のことを抱けないのだ。そして今度は彼が決意する。恋敵の首に巻いたロープを切ってやるのだ。恋人たちは手を取り合って幽界から脱出する。クリスティーンが一度戻ってくるが、これは先にファントムから与えられたリングを返すためであった。つらいなあ、これ。ファントムは一人孤独に心情を吐露したのち、どこへともなく消え去る。
あのクリスティーンのキスと抱擁は何だったのか。
ともかく、生者のキスと抱擁は、死者にはあまりにも熱すぎたのだ。だからファントムは抱き返すことが出来なかった。死者であるファントムは死者の世界を知り過ぎているがゆえに、生者のキスと抱擁を受けて、彼女への想いを断ち切らねばならなかったのだ。
果たしてファントムは成仏できたかどうか。彼は自らを「エンジェル・オブ・ミュージック」と称していた。このあたりに答えがあるかもしれない。
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つい先日、日本から知人が来たので、まあめったにないことと奮発してミュージカル「オペラ座の怪人」を見に行った。これが知人であって、愛人でないところがなんとも色気がないのだけれど、怪人でも変人でもなかったので、まあいいか。
数年前にこの舞台、僕は一度見ていて、そのときは大して感心しなかったのだが、今回は素晴らしく良かった。ヒロインの歌姫クリスティーン役の女優は今ひとつだが、ファントム役のスコット・デイヴィースという役者が見事で、僕は不覚にも涙が出そうになった。
このデイヴィース氏、憑依体質なのだろう、ほら、たまにいるでしょう、放っておくと一人でしゃべって、勝手にどんどん何かにとりつかれていく人。きっと、そういうタイプなのだ。とにかく、同じ演目でも演者によって、こんなにも印象が変わってくるのだと改めて実感した。
「オペラ座の怪人」は、ファントムと、彼に魅入られた歌姫クリスティーン、そして彼女に恋するラウルとの三角関係を描いた恋愛ドラマである。
愛するクリスティーンを守らん(?)がため、ファントムにより殺人が繰り返されたのち、舞台はクライマックス。助命を乞うクリスティーンを無視して、ファントムはラウルの首にロープをかけ今にも彼を殺してしまおうとする。彼女もラウルを愛しながらもまた、ファントムの魔力から逃れられないのだ。ファントムは悲痛な声で彼女に叫ぶ。「(どちらをえらぶのか)決断しろ!」。
クリスティーンは、ファントムの元へ寄りキスし、強く抱擁する。ファントムはしかし、抱き返せない。再びキス。やはり彼の手は震えるだけで、とうとうあれほど愛した彼女のことを抱けないのだ。そして今度は彼が決意する。恋敵の首に巻いたロープを切ってやるのだ。恋人たちは手を取り合って幽界から脱出する。クリスティーンが一度戻ってくるが、これは先にファントムから与えられたリングを返すためであった。つらいなあ、これ。ファントムは一人孤独に心情を吐露したのち、どこへともなく消え去る。
あのクリスティーンのキスと抱擁は何だったのか。
ともかく、生者のキスと抱擁は、死者にはあまりにも熱すぎたのだ。だからファントムは抱き返すことが出来なかった。死者であるファントムは死者の世界を知り過ぎているがゆえに、生者のキスと抱擁を受けて、彼女への想いを断ち切らねばならなかったのだ。
果たしてファントムは成仏できたかどうか。彼は自らを「エンジェル・オブ・ミュージック」と称していた。このあたりに答えがあるかもしれない。
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8/05/2009
リチャード3世
異形の者は、ときに極めてエロティックな存在だ。そのエロティシズムとは、たとえば「セクシー」なんて、良識や常識と折り合いをつけたような言葉で表現されるようなものでなく、もっと、深遠を覗きこんだときの恐怖に近いものだ。
シェイクスピアの描いたリチャード3世は、まさしく異形の者だ。冒頭の独白で、彼は己れの異形を呪い、いわば世界に対する復讐の念から、王位の簒奪を誓う。
言うまでもなく、リチャード3世は実在の人物。薔薇戦争で有名なヨーク家の最後の王である。シェイクスピアは、史実を踏まえながら想像力を駆使し、ピカレスク・ロマンといった趣の舞台劇を創り上げた。
ストーリーを追うのはよそう。ここでは、二人の女性を採り上げる。
アン。彼女は夫と義理の父をリチャードに殺され、喪に服している。リチャードは彼女の財力に目をつけたのだろう、言葉巧みに言い寄る。彼にはアンに対する愛情のひとかけらもない。あるのは悪魔的な野心だけだ。しかし、最初、唾を吐き掛けたほど憎い男に、アンはころりとだまされて、リチャードの妻となることに同意するのだ。
乱世の中、後ろ盾を失った女性の、保身の知恵とも読めるだろう。だが、このむしろ陽気で饒舌な異形のリチャードに、シェイクスピアは強烈なエロティシズムを発見していたのではなかったか。破滅的だが計算高く、冷徹だが茶目っ気もある。見え透いた甘言だと知りつつも、相手が怪物なればこそ、己れの中のおぞましいものを覗き込む快楽に、アンが流されていったのも不思議ではない。そもそもエロティシズムとは、タブーを犯す悦びから生まれるものだ。
リチャードは、兄王の没後、その跡取りである少年王を殺害して、王位強奪を成就する。妻アンを謀殺したあと、今度は少年王の母親でもある前王妃エリザベスに目をつける。本当の狙いは彼女の一人娘の王女である。エリザベスもまんまとリチャードの口車に乗り、協力することを約束するものの、政治情勢の急転により、彼の謀略は最終的には成功しない。
しかし違う読み方もできよう。今回のリチャードの誘惑は、エリザベス本人に向けられたものではないのだ。これが本人に対するものであったらどうか。僕はリチャードの魅力に、エリザベスもやはり屈したような気がするのだけど。「女」ではなく、「母」エリザベスを口説いたところに、リチャードの敗因があったのだ。
ヘンリー7世との最後の決戦で、リチャードは死闘を展開する。馬を失い、彼は叫ぶ。「馬をくれ、馬を!俺の王国を代わりにやろう」。最後に強烈なエロティシズムをまき散らしながら、この異形の悪魔は戦死する。
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シェイクスピアの描いたリチャード3世は、まさしく異形の者だ。冒頭の独白で、彼は己れの異形を呪い、いわば世界に対する復讐の念から、王位の簒奪を誓う。
言うまでもなく、リチャード3世は実在の人物。薔薇戦争で有名なヨーク家の最後の王である。シェイクスピアは、史実を踏まえながら想像力を駆使し、ピカレスク・ロマンといった趣の舞台劇を創り上げた。
ストーリーを追うのはよそう。ここでは、二人の女性を採り上げる。
アン。彼女は夫と義理の父をリチャードに殺され、喪に服している。リチャードは彼女の財力に目をつけたのだろう、言葉巧みに言い寄る。彼にはアンに対する愛情のひとかけらもない。あるのは悪魔的な野心だけだ。しかし、最初、唾を吐き掛けたほど憎い男に、アンはころりとだまされて、リチャードの妻となることに同意するのだ。
乱世の中、後ろ盾を失った女性の、保身の知恵とも読めるだろう。だが、このむしろ陽気で饒舌な異形のリチャードに、シェイクスピアは強烈なエロティシズムを発見していたのではなかったか。破滅的だが計算高く、冷徹だが茶目っ気もある。見え透いた甘言だと知りつつも、相手が怪物なればこそ、己れの中のおぞましいものを覗き込む快楽に、アンが流されていったのも不思議ではない。そもそもエロティシズムとは、タブーを犯す悦びから生まれるものだ。
リチャードは、兄王の没後、その跡取りである少年王を殺害して、王位強奪を成就する。妻アンを謀殺したあと、今度は少年王の母親でもある前王妃エリザベスに目をつける。本当の狙いは彼女の一人娘の王女である。エリザベスもまんまとリチャードの口車に乗り、協力することを約束するものの、政治情勢の急転により、彼の謀略は最終的には成功しない。
しかし違う読み方もできよう。今回のリチャードの誘惑は、エリザベス本人に向けられたものではないのだ。これが本人に対するものであったらどうか。僕はリチャードの魅力に、エリザベスもやはり屈したような気がするのだけど。「女」ではなく、「母」エリザベスを口説いたところに、リチャードの敗因があったのだ。
ヘンリー7世との最後の決戦で、リチャードは死闘を展開する。馬を失い、彼は叫ぶ。「馬をくれ、馬を!俺の王国を代わりにやろう」。最後に強烈なエロティシズムをまき散らしながら、この異形の悪魔は戦死する。
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7/29/2009
ロセッティ
1869年10月10日、ロセッティは、7年前に自殺した妻リジーとともに埋葬した自作の詩の手稿を取り戻すため、彼女の墓をあばいた。新しいミューズにして恋人、そしてウィリアム・モリスの妻であるジェーンに捧げる詩集を編むためである。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティには、様々なエピソードがある。20歳で、後にヴィクトリア絵画の主流を形づくるラファエル前派兄弟団を結成。リジーとの長い婚約期間、そして彼女の死期を意識してからの結婚、彼女の自殺。かつての同士、ハントの妻との不貞。ジェーンとの蜜月。自殺未遂。そして神経衰弱、薬物中毒。死。恋することに殉じた破滅型の画家・詩人である。
色々と気になる人物だが、今回は墓を掘り返した事件から考えたい。
この心理、一体どう説明したものか。元はと言えば、リジーのために書きためた詩であろう。だから、彼女の死とともに埋葬されたのだ。一説によると、この手稿、彼女の遺体の髪の傍らに置かれていたという。一体どういった気持ちで再び手にしたものか。芸術家の心には悪魔が棲む。きれいはきたない、きたないはきれい、か。
妻を寝取られたモリスは、この二人の関係の隠蔽に躍起となるが、ロセッティは、彼の作品・人格を攻撃する批評が発表されたのを機に神経を病み、やがてジェーンとの恋愛も終わる。
一見、常軌を逸しているとはいえ、ジェーンをいわゆる「最後の女」とみなせば、墓掘りのエピソードは、純愛ストーリーとして収束されそうだ。しかし仮に、ジェーンにリジーと同じことが起きたとしたら、果たして彼はどうしたか。同じことを繰り返さなかったか。もしそうならば、彼の詩はもはや、リジーやジェーンといった生身の女性に捧げられたものとは言えまい。彼女たちの先にいる女性に捧げられたものになるのだ。
ロセッティの描く女性像は、皆、不思議と印象が似ている。豊かな髪、官能的な唇、太い首。性的魅力に富んでいるが男性的な印象。ロセッティは、彼の「永遠の女性」にとりつかれていたのだ。
「永遠の女性」にとりつかれた男に選ばれ愛された女性は、幸福だろうか。作品で永遠の生を与えられたとしても。
晩年性格が変わったが、若い頃のロセッティは、情熱的でカリスマ的だったという。きっと女性に甘えるのもうまかったのであろう。ひとりよがり、高慢、夢見がち。そんな彼を、やっぱり彼女たちは愛したのであろう。何となく、彼の描く女性像は、原始的な強い母性をそなえているようにも見える。
僕もときどき、犬神様やキツネにとりつかれるが、そんなんじゃ、やっぱり駄目なんだろうね。
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ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティには、様々なエピソードがある。20歳で、後にヴィクトリア絵画の主流を形づくるラファエル前派兄弟団を結成。リジーとの長い婚約期間、そして彼女の死期を意識してからの結婚、彼女の自殺。かつての同士、ハントの妻との不貞。ジェーンとの蜜月。自殺未遂。そして神経衰弱、薬物中毒。死。恋することに殉じた破滅型の画家・詩人である。
色々と気になる人物だが、今回は墓を掘り返した事件から考えたい。
この心理、一体どう説明したものか。元はと言えば、リジーのために書きためた詩であろう。だから、彼女の死とともに埋葬されたのだ。一説によると、この手稿、彼女の遺体の髪の傍らに置かれていたという。一体どういった気持ちで再び手にしたものか。芸術家の心には悪魔が棲む。きれいはきたない、きたないはきれい、か。
妻を寝取られたモリスは、この二人の関係の隠蔽に躍起となるが、ロセッティは、彼の作品・人格を攻撃する批評が発表されたのを機に神経を病み、やがてジェーンとの恋愛も終わる。
一見、常軌を逸しているとはいえ、ジェーンをいわゆる「最後の女」とみなせば、墓掘りのエピソードは、純愛ストーリーとして収束されそうだ。しかし仮に、ジェーンにリジーと同じことが起きたとしたら、果たして彼はどうしたか。同じことを繰り返さなかったか。もしそうならば、彼の詩はもはや、リジーやジェーンといった生身の女性に捧げられたものとは言えまい。彼女たちの先にいる女性に捧げられたものになるのだ。
ロセッティの描く女性像は、皆、不思議と印象が似ている。豊かな髪、官能的な唇、太い首。性的魅力に富んでいるが男性的な印象。ロセッティは、彼の「永遠の女性」にとりつかれていたのだ。
「永遠の女性」にとりつかれた男に選ばれ愛された女性は、幸福だろうか。作品で永遠の生を与えられたとしても。
晩年性格が変わったが、若い頃のロセッティは、情熱的でカリスマ的だったという。きっと女性に甘えるのもうまかったのであろう。ひとりよがり、高慢、夢見がち。そんな彼を、やっぱり彼女たちは愛したのであろう。何となく、彼の描く女性像は、原始的な強い母性をそなえているようにも見える。
僕もときどき、犬神様やキツネにとりつかれるが、そんなんじゃ、やっぱり駄目なんだろうね。
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ヴィクトリア絵画
イギリスに来て、良かったかなと思うことのひとつに、ラファエル前派に代表されるヴィクトリア絵画の再発見がある。
随分以前に、日本のデパートで、かなり大がかりなラファエル前派の展覧会を見ている。が、そのときの僕は、ポロックなどに代表される抽象表現主義に共感していたので、その少女趣味的ともいえるテイストに、ぴんと来なかった。
ロンドンに来て、無料が嬉しくって、テイト・ギャラリー(現テイト・ブリテン)にたびたび寄っていたのだが、そのうち自分の嗜好が変わっているのに気付き、びっくりした。
ラファエル前派とその追随者たちは、もちろん風景、あるいは当時の社会問題などにも題材を採っているが、やはり聖書や神話・伝説などに霊感を得ている作品がより良く知られているだろう。一方、当時のヨーロッパでは、主題よりも、色彩や構図といった絵画の属性そのものが追究され、これが現代絵画の主流となっていく。絵画の「自律化」である。ヴィクトリア絵画は、絵画史の流れでいえば、傍流だ。文学的な要素にあまりにも寄り添い過ぎていることが、絵画の自律化に逆行しているからであろう。
若い頃の僕は、そう考えていた。では一体、何が変わったのだろう。そうだ、僕自身が、何か大きな「物語」を要求し出していたのだ。あるいは「神話的世界」とつながることを欲していたのだ。そう思い至ったとき、ヴィクトリア絵画のアプローチというのは、きわめて重要なテーマを抱えていたのではないかと思えてきたのだった。
切り口を変えよう。
97年にロイヤル・アカデミーで開催されて大評判を採った「センセーション」展は、当時僕も大きな期待をもって見に行った。感想はがっかり、となるほど、のふたつ。がっかりの部分は飛ばそう。なるほど、と思ったのは、会場にBGMとして、かすかに教会音楽が流れていたからだ。並べられていた作品は、奇怪なもの、「穢れ」を象徴するもの、性的なもの、現代文明を象徴するかのような無機的なもの。しかし宗教音楽が流れていることから、無意識のうちに、これらの作品群を自分たちの生の代用品として、生贄に捧げるといった心理的メカニズムがそこでは働いていたと思う。カタルシスを覚えた観客もいただろう。
大きな「物語」とつながる、とは、つまりそういうことだ。
イギリスが世界一の工業国として君臨したこのヴィクトリア時代に、聖書やら、妖精やら、アーサー王たちのイメージが噴出してきたというのは興味深い。現代におけるコンピュータ・ゲームの流行も、同じ文脈で読み取れるのではないかな。
前置きが長くなったが、この時代の画家として、僕が最も気になるロセッティを次回に。
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随分以前に、日本のデパートで、かなり大がかりなラファエル前派の展覧会を見ている。が、そのときの僕は、ポロックなどに代表される抽象表現主義に共感していたので、その少女趣味的ともいえるテイストに、ぴんと来なかった。
ロンドンに来て、無料が嬉しくって、テイト・ギャラリー(現テイト・ブリテン)にたびたび寄っていたのだが、そのうち自分の嗜好が変わっているのに気付き、びっくりした。
ラファエル前派とその追随者たちは、もちろん風景、あるいは当時の社会問題などにも題材を採っているが、やはり聖書や神話・伝説などに霊感を得ている作品がより良く知られているだろう。一方、当時のヨーロッパでは、主題よりも、色彩や構図といった絵画の属性そのものが追究され、これが現代絵画の主流となっていく。絵画の「自律化」である。ヴィクトリア絵画は、絵画史の流れでいえば、傍流だ。文学的な要素にあまりにも寄り添い過ぎていることが、絵画の自律化に逆行しているからであろう。
若い頃の僕は、そう考えていた。では一体、何が変わったのだろう。そうだ、僕自身が、何か大きな「物語」を要求し出していたのだ。あるいは「神話的世界」とつながることを欲していたのだ。そう思い至ったとき、ヴィクトリア絵画のアプローチというのは、きわめて重要なテーマを抱えていたのではないかと思えてきたのだった。
切り口を変えよう。
97年にロイヤル・アカデミーで開催されて大評判を採った「センセーション」展は、当時僕も大きな期待をもって見に行った。感想はがっかり、となるほど、のふたつ。がっかりの部分は飛ばそう。なるほど、と思ったのは、会場にBGMとして、かすかに教会音楽が流れていたからだ。並べられていた作品は、奇怪なもの、「穢れ」を象徴するもの、性的なもの、現代文明を象徴するかのような無機的なもの。しかし宗教音楽が流れていることから、無意識のうちに、これらの作品群を自分たちの生の代用品として、生贄に捧げるといった心理的メカニズムがそこでは働いていたと思う。カタルシスを覚えた観客もいただろう。
大きな「物語」とつながる、とは、つまりそういうことだ。
イギリスが世界一の工業国として君臨したこのヴィクトリア時代に、聖書やら、妖精やら、アーサー王たちのイメージが噴出してきたというのは興味深い。現代におけるコンピュータ・ゲームの流行も、同じ文脈で読み取れるのではないかな。
前置きが長くなったが、この時代の画家として、僕が最も気になるロセッティを次回に。
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王妃グィネヴィアとサー・ラーンスロット②
先にアーサー王のことを書いたが、この伝説の中に僕の好きなエピソードがある。
王妃グィネヴィアが五月のある日、身近の従臣たちだけをつれて五月祭のための花摘みに出かけた。ところが、かねてから王妃に想いを寄せていた勢力者マレアガンスに、一行は捕らえられてしまう。王妃は、小姓を逃がし、ラーンスロットに助けを求める(自分の夫に、ではないのですね。恋人にまず伝えるのですぞ)。
知らせを受けたラーンスロットは、数々の苦難を乗り越え、ようやく王妃が幽閉されている城の前にたどり着く。が、ライオンと豹とに襲われ、これらを倒すものの、自分も重傷を負う。傷の癒える間もなく、彼はマレアガンスと一騎打ちを行うが、衰弱した体は、本来の力を発揮することを許さず、勝負が危ぶまれる。
と、そのときグィネヴィアが叫ぶのだ。「ああ、ラーンスロット!私の騎士よ、人の話ではあなたはもう私にふさわしい者ではないと聞いていましたが、やはり本当だったのですね!」(トマス・ブルフィンチ著、大久保博訳「中世騎士物語」角川文庫)。この一言で彼は気力を回復し、見事、敵を打ちのめす。
恋をしているときの男にとって、しかもその男が苦境に立たされているとき、女の叫びというのは、かくも絶大な影響力を持つものである。信じられないかもしれないが、本当なのだ。その証拠に、このパターン、何度繰り返し繰り返し、現代にいたるまで描かれ続けてきたことだろうか。
ちょっとひねってはあるが、「あしたのジョー」だってそうだったはずだ。丹下段平がいくら「立て、立つんだジョー」なんて絶叫したところで、彼を支えていたのは、かつて彼と拳を合わせたボクサーたちの幻とともに、白木葉子の存在だったはずだ。僕なら、丹下段平じゃ嫌だ。寝てる。
ひょっとすると、これは全人類が共有するイメージかも知れない。子供の叫びによって回復する主人公、というのはこの亜流だろう。スカッとするんだな、これが。女性はこういうシーンをどんな風に感じながら見るのだろう。
ご免ね陽子ちゃん。小学校四年のとき、君が応援してくれたのに、目の前で転んでみんなに抜かされて。ご免ね恵子ちゃん。中学一年のとき、君の目の前で騎馬戦のとき落馬して。ご免ね真由美ちゃん。中学三年のとき、飛び込み方が悪かったんだ、プールの底で頭打っちゃった。ご免ね由加利ちゃん。高二のとき、せっかくオーディション聞きにきてくれたのに、アガッちゃって頭真っ白。ご免ね啓子。大学一年のとき、まだ慣れていなくって御免なさい済みません申し訳ないご免なさい。
そして僕は、立派な大人になった。
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王妃グィネヴィアが五月のある日、身近の従臣たちだけをつれて五月祭のための花摘みに出かけた。ところが、かねてから王妃に想いを寄せていた勢力者マレアガンスに、一行は捕らえられてしまう。王妃は、小姓を逃がし、ラーンスロットに助けを求める(自分の夫に、ではないのですね。恋人にまず伝えるのですぞ)。
知らせを受けたラーンスロットは、数々の苦難を乗り越え、ようやく王妃が幽閉されている城の前にたどり着く。が、ライオンと豹とに襲われ、これらを倒すものの、自分も重傷を負う。傷の癒える間もなく、彼はマレアガンスと一騎打ちを行うが、衰弱した体は、本来の力を発揮することを許さず、勝負が危ぶまれる。
と、そのときグィネヴィアが叫ぶのだ。「ああ、ラーンスロット!私の騎士よ、人の話ではあなたはもう私にふさわしい者ではないと聞いていましたが、やはり本当だったのですね!」(トマス・ブルフィンチ著、大久保博訳「中世騎士物語」角川文庫)。この一言で彼は気力を回復し、見事、敵を打ちのめす。
恋をしているときの男にとって、しかもその男が苦境に立たされているとき、女の叫びというのは、かくも絶大な影響力を持つものである。信じられないかもしれないが、本当なのだ。その証拠に、このパターン、何度繰り返し繰り返し、現代にいたるまで描かれ続けてきたことだろうか。
ちょっとひねってはあるが、「あしたのジョー」だってそうだったはずだ。丹下段平がいくら「立て、立つんだジョー」なんて絶叫したところで、彼を支えていたのは、かつて彼と拳を合わせたボクサーたちの幻とともに、白木葉子の存在だったはずだ。僕なら、丹下段平じゃ嫌だ。寝てる。
ひょっとすると、これは全人類が共有するイメージかも知れない。子供の叫びによって回復する主人公、というのはこの亜流だろう。スカッとするんだな、これが。女性はこういうシーンをどんな風に感じながら見るのだろう。
ご免ね陽子ちゃん。小学校四年のとき、君が応援してくれたのに、目の前で転んでみんなに抜かされて。ご免ね恵子ちゃん。中学一年のとき、君の目の前で騎馬戦のとき落馬して。ご免ね真由美ちゃん。中学三年のとき、飛び込み方が悪かったんだ、プールの底で頭打っちゃった。ご免ね由加利ちゃん。高二のとき、せっかくオーディション聞きにきてくれたのに、アガッちゃって頭真っ白。ご免ね啓子。大学一年のとき、まだ慣れていなくって御免なさい済みません申し訳ないご免なさい。
そして僕は、立派な大人になった。
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王妃グィネヴィアとサー・ラーンスロット①
どうしても分からないのだ。
アーサー王と王妃グィネヴィア、そして、サー・ラーンスロットの三角関係がである。
中世の騎士にとり、貴婦人に忠誠を誓い、その愛の証明として勲功をあげるのは、最高の名誉となる。ラーンスロットの場合、求愛の対象が王妃であった。一途の愛から、彼は騎士の中の騎士となり、王も王妃も彼を寵愛するのだが、このあたりがどうも分からん。
いかに宮廷恋愛が高尚な遊びとはいえ、あからさまな「求愛」は、王の怒りを買わなかったのだろうか。二人の間には肉体関係もあったようなのだが。
アーサーの王国崩壊のきっかけは、実は、王妃とラーンスロットの恋愛にある。アーサーの忠臣の一人が、彼らの関係を「表沙汰」にしてしまうことに始まる。王は王妃を火刑に処することを決断するが、間一髪、ラーンスロットが王妃を救い出す。そして王国は国王派。ラーンスロット派の二つに割れて戦いを始める。
この、王妃救出以降のアーサー王伝説の展開、何かの比喩なのだろうか。
考えられるのは、貴族たちの結婚はあくまで政治。恋愛は遊戯と完全に区別されていたのだろう、ということだ。だから、ラーンスロットが王妃を自分の城へと奪っていった段階で、遊戯は遊戯でなくなった。政治の領域に侵食してしまったのだ。これでは、アーサーも動かざるを得ない。まさしく「恋愛と結婚は別」だったのだ。
ローマ教皇の仲介により、いったんアーサーとラーンスロットの間に和睦が成り立ち、王妃は王の元へと返される。ラーンスロットもおとなしくこれに応じている。こうなるとグィネヴィアも玉(ギョク)、つまりはモノ扱いで、ここに働くのは政治の力学のみである。あれほど子供じみて魅力的だったラーンスロットも、この段階で大人になったというか、政治に堕したというか、なんとなく生彩に欠ける。
さて「腹」より「種(タネ)」を選んだ社会、つまり父系社会というのは、往々にして息苦しいものだが、アーサー王の物語もこんなふうに読めはしないか。彼と王妃の間に子のなかったことを考えれば、王国は、王妃を、王とラーンスロットで共有していたことで成立していた。「種」の発想、逆に言えば、「姦通」の意識にとらわれたとき、このユートピアは崩壊した。
「王妃は、王とラーンスロットと仲睦まじく幸せに暮らし、王国はいつまでも栄えましたとさ」。
こんなオチもあると思うし、「種」よりも「腹」を選んだ社会の心理構造といったものに、僕は興味があるのだけど。
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アーサー王と王妃グィネヴィア、そして、サー・ラーンスロットの三角関係がである。
中世の騎士にとり、貴婦人に忠誠を誓い、その愛の証明として勲功をあげるのは、最高の名誉となる。ラーンスロットの場合、求愛の対象が王妃であった。一途の愛から、彼は騎士の中の騎士となり、王も王妃も彼を寵愛するのだが、このあたりがどうも分からん。
いかに宮廷恋愛が高尚な遊びとはいえ、あからさまな「求愛」は、王の怒りを買わなかったのだろうか。二人の間には肉体関係もあったようなのだが。
アーサーの王国崩壊のきっかけは、実は、王妃とラーンスロットの恋愛にある。アーサーの忠臣の一人が、彼らの関係を「表沙汰」にしてしまうことに始まる。王は王妃を火刑に処することを決断するが、間一髪、ラーンスロットが王妃を救い出す。そして王国は国王派。ラーンスロット派の二つに割れて戦いを始める。
この、王妃救出以降のアーサー王伝説の展開、何かの比喩なのだろうか。
考えられるのは、貴族たちの結婚はあくまで政治。恋愛は遊戯と完全に区別されていたのだろう、ということだ。だから、ラーンスロットが王妃を自分の城へと奪っていった段階で、遊戯は遊戯でなくなった。政治の領域に侵食してしまったのだ。これでは、アーサーも動かざるを得ない。まさしく「恋愛と結婚は別」だったのだ。
ローマ教皇の仲介により、いったんアーサーとラーンスロットの間に和睦が成り立ち、王妃は王の元へと返される。ラーンスロットもおとなしくこれに応じている。こうなるとグィネヴィアも玉(ギョク)、つまりはモノ扱いで、ここに働くのは政治の力学のみである。あれほど子供じみて魅力的だったラーンスロットも、この段階で大人になったというか、政治に堕したというか、なんとなく生彩に欠ける。
さて「腹」より「種(タネ)」を選んだ社会、つまり父系社会というのは、往々にして息苦しいものだが、アーサー王の物語もこんなふうに読めはしないか。彼と王妃の間に子のなかったことを考えれば、王国は、王妃を、王とラーンスロットで共有していたことで成立していた。「種」の発想、逆に言えば、「姦通」の意識にとらわれたとき、このユートピアは崩壊した。
「王妃は、王とラーンスロットと仲睦まじく幸せに暮らし、王国はいつまでも栄えましたとさ」。
こんなオチもあると思うし、「種」よりも「腹」を選んだ社会の心理構造といったものに、僕は興味があるのだけど。
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7/23/2009
愛のかたち
暴挙であった。
編集長にそそのかされて、「愛のかたち」について何かエッセイを書いてみませんか、なんて言われたとき、つい魔がさしたのだ。「フフフ、恋愛を語れ、とは、僕もまんざら捨てたものではないな」
そして考えた。愛のかたちを一生懸命に考えた。
えー、愛のかたちといえば、通常四十八くらいあるといいまして、そのうち僕は三つくらいしか知りませんが、いえ、知っていると言っても、それらが本当に正しいものかどうかも怪しいのですが、日本では、とにかく四十八です。でも、インドあたりでは、どうももっとたくさんあるような気がするのですが、気のせいでしょうか。
あるいは、69なんていう愛のかたちがあります。でもひょっとすると29なんていうのもあるかも知れない。88なんていうのも、なんだかいわくありげに見えてきました。そんなふうに考えてみると、十という漢数字もなんだか、異様な迫力がある。「三位一体」なんていう熟語もなんとも玄妙な味わいがあります・・・。愛は数字の数だけあるのです。
などという、くだらない考えばかりが、ぐるぐるー、ぐるぐるーと頭の中を駆け巡り、早くも発狂しそうである。
原稿を引き受けたのは、暴挙、あるいは愚挙と言うしかあるまい。
そもそも恋愛とは、何ぞや。
フロイトのように、人間を性衝動のポンプのように考え、その性衝動あるいはリビドーが、他者に転移したときに、恋愛感情が始まるとする見方。あるいは、人類が太古より積み重ねてきた性的経験の集積が、各個人の中に遺伝子のように組み込まれていて、それがたまたま他者の中に顕現したとき(アニマやアニムス)、恋愛感情が起こるという、ユング的な見方。バタイユなどは、細胞分裂から説き起こし、「全体性への憧憬」といったようなキーワードで、これを説明しようとする(性的恍惚感、すなわち全体性の獲得、である)。
僕自身の感じからいくと、実はバタイユに最も近い。というか、若い頃に読みすぎて影響されたのだろうが、ともかく。恋をしているときは、何か「失ったものを取り戻す」といったような熱情にいつも駆られているような気がする。
人はどんな風に恋をするのか、僕には分からないが、少なくとも、この「熱情」という部分では共通しているのではないか。パッションは非合理の世界に属する。
人間はこの窮屈な合理の世界を突き崩す非合理を、常に必要としている。ならば数字が支配するこの世界に生きるわれわれにとって、恋愛というのは、非合理な、何か大きな世界に通じる最後の砦なのかも知れない。打算的な結婚はあり得ても、打算的な恋というのは、こりゃ堕落だよね。と、まずは前置き。
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編集長にそそのかされて、「愛のかたち」について何かエッセイを書いてみませんか、なんて言われたとき、つい魔がさしたのだ。「フフフ、恋愛を語れ、とは、僕もまんざら捨てたものではないな」
そして考えた。愛のかたちを一生懸命に考えた。
えー、愛のかたちといえば、通常四十八くらいあるといいまして、そのうち僕は三つくらいしか知りませんが、いえ、知っていると言っても、それらが本当に正しいものかどうかも怪しいのですが、日本では、とにかく四十八です。でも、インドあたりでは、どうももっとたくさんあるような気がするのですが、気のせいでしょうか。
あるいは、69なんていう愛のかたちがあります。でもひょっとすると29なんていうのもあるかも知れない。88なんていうのも、なんだかいわくありげに見えてきました。そんなふうに考えてみると、十という漢数字もなんだか、異様な迫力がある。「三位一体」なんていう熟語もなんとも玄妙な味わいがあります・・・。愛は数字の数だけあるのです。
などという、くだらない考えばかりが、ぐるぐるー、ぐるぐるーと頭の中を駆け巡り、早くも発狂しそうである。
原稿を引き受けたのは、暴挙、あるいは愚挙と言うしかあるまい。
そもそも恋愛とは、何ぞや。
フロイトのように、人間を性衝動のポンプのように考え、その性衝動あるいはリビドーが、他者に転移したときに、恋愛感情が始まるとする見方。あるいは、人類が太古より積み重ねてきた性的経験の集積が、各個人の中に遺伝子のように組み込まれていて、それがたまたま他者の中に顕現したとき(アニマやアニムス)、恋愛感情が起こるという、ユング的な見方。バタイユなどは、細胞分裂から説き起こし、「全体性への憧憬」といったようなキーワードで、これを説明しようとする(性的恍惚感、すなわち全体性の獲得、である)。
僕自身の感じからいくと、実はバタイユに最も近い。というか、若い頃に読みすぎて影響されたのだろうが、ともかく。恋をしているときは、何か「失ったものを取り戻す」といったような熱情にいつも駆られているような気がする。
人はどんな風に恋をするのか、僕には分からないが、少なくとも、この「熱情」という部分では共通しているのではないか。パッションは非合理の世界に属する。
人間はこの窮屈な合理の世界を突き崩す非合理を、常に必要としている。ならば数字が支配するこの世界に生きるわれわれにとって、恋愛というのは、非合理な、何か大きな世界に通じる最後の砦なのかも知れない。打算的な結婚はあり得ても、打算的な恋というのは、こりゃ堕落だよね。と、まずは前置き。
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序
ウェブのデザインを一新した。
一新したついでに、ブログなるものにもこの際だから手を出すかっていうんで思い立ったはいいが、吉日どころか、よっぽどめぐり合わせの悪い日だったに違いない。そのまま手をこまねき、ねえ、何書いたらいいの?状態が延々延々と続き、気が狂いそうになってきた数日前、ふと思いついた。以前、英国を中心に配布されている「英国ニュースダイジェスト」というフリー・ペーパーに連載していたコラムがある。これをこの場に掲載していくってのは駄目ですかって、誰に許可を得ようとしているのか良く分からんが、編集部の許可は取った。
色々苦労して書いていたので、どこかで再発表できればいいなとかねがね思っていたのであった。ただ読み返してみると、当時の心持と今の状態では、結構な距離のあるものもあって、どうかなと思うところもあるけれど、まあそれはそれでいいだろう。
主にヨーロッパに関連する題材から「恋愛を語る」というテーマで毎週、ほぼ1年にわたって連載したのだが、当時思ったのは、「恋愛」は「虚構」であり、仮に恋愛をする「能力」があるとすれば、それはこの「フィクションを作り上げる力」であるということ。「虚構」といえば、なんだか聞こえが悪いが、たとえば優れた芸術作品(これも虚構の一種である)が、絶対者あるいは宇宙とコンタクトを取ることを鑑賞者に許すことで彼あるいは彼女の魂を救うように、恋愛自体が当事者を包み込む寺院の伽藍となり、この舞台で魂の一瞬が永遠と触れスパークする。この考えは今も変わらない。この通奏低音はほぼ全編にわたって聞かれると思うので、現時点との多少の誤差はかまわないだろう。いいことにすると私が今決めた。
前振りもこの辺で。それでは「アシッド恋愛論」の始まり始まり。
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一新したついでに、ブログなるものにもこの際だから手を出すかっていうんで思い立ったはいいが、吉日どころか、よっぽどめぐり合わせの悪い日だったに違いない。そのまま手をこまねき、ねえ、何書いたらいいの?状態が延々延々と続き、気が狂いそうになってきた数日前、ふと思いついた。以前、英国を中心に配布されている「英国ニュースダイジェスト」というフリー・ペーパーに連載していたコラムがある。これをこの場に掲載していくってのは駄目ですかって、誰に許可を得ようとしているのか良く分からんが、編集部の許可は取った。
色々苦労して書いていたので、どこかで再発表できればいいなとかねがね思っていたのであった。ただ読み返してみると、当時の心持と今の状態では、結構な距離のあるものもあって、どうかなと思うところもあるけれど、まあそれはそれでいいだろう。
主にヨーロッパに関連する題材から「恋愛を語る」というテーマで毎週、ほぼ1年にわたって連載したのだが、当時思ったのは、「恋愛」は「虚構」であり、仮に恋愛をする「能力」があるとすれば、それはこの「フィクションを作り上げる力」であるということ。「虚構」といえば、なんだか聞こえが悪いが、たとえば優れた芸術作品(これも虚構の一種である)が、絶対者あるいは宇宙とコンタクトを取ることを鑑賞者に許すことで彼あるいは彼女の魂を救うように、恋愛自体が当事者を包み込む寺院の伽藍となり、この舞台で魂の一瞬が永遠と触れスパークする。この考えは今も変わらない。この通奏低音はほぼ全編にわたって聞かれると思うので、現時点との多少の誤差はかまわないだろう。いいことにすると私が今決めた。
前振りもこの辺で。それでは「アシッド恋愛論」の始まり始まり。
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