11/25/2009

フィツカラルド

 つい最近知ったのだ。なんと、このコラム、「ドイツ・ニュースダイジェスト」でも連載されていた!今までは英国に敬意を表して、何とかこの国中心の色恋沙汰にこだわってきたのだ。いやぁ、これで話題が広がる。いーことやんけ、せやんけ、ダンケ、ダンケ。
 ドイツといえば、まずはこの男だ。クラウス・キンスキー。もう数年前に亡くなってしまったが、本国ドイツでは、ヘルツォーグ監督と組んだ一連の作品が内外で高い評価を得て、一時のジャーマン・ニューウェーブを引っ張った名優である。
 ときに人生に対して強烈なインパクトを与えてくれる映画があって、これらとの初めての出会いがビデオやdvdじゃなくて映画館であったりすると、これはもう天に巡り合わせを感謝したくなる。小学5年生のとき、こうして僕は「アラビアのロレンス」と出会い、中2のとき「七人の侍」と出会った(いずれも再上映)。大学に入った頃出会ったのが、キンスキー主演の代表作「アギーレ・神の怒り」そして「フィツカラルド」であった。
 この人は、とり憑かれた男を演じると凄まじいエネルギーを発散する人で、「アギーレ」ではエル・ドラド発見に執念を燃やす中世の武将、そして「フィツカラルド」では、南米の奥地にオペラハウスを建てる夢を追う実業家を演じていた。
 人格破綻者である。私生活でも自らを「クライスト」と任じ、政治講演会などで観客をアジっていたようだが、ひょっとすると、本当にクライストなのかもしれないと思わせるような強烈な顔をしていた。そう、キンスキーは顔である。初めてスクリーンに現れた彼の顔を見たとき、僕はガツンと頭に一撃、中年になったら男はこういう顔にならねばならぬ、と決めたものだ。それに反して今のところ、鼻の下が長くなるばかりのように思えるのは、気のせいか?
 さて、「フィツカラルド」はビデオでもdvdででも見るべし。なぜなら、聖女が登場するからだ。クラウディア・カルディナーレ演じるところの、フィツカラルドの愛人兼スポンサー、娼婦館のマダムである。スポンサーだって?ではフィツカラルドは単なるヒモか?とんでもない。映画の中で、キンスキーは神に挑戦して敗北した超人であり、CCは聖女なのだ。見れば分かる。
 しかし、CCなんて言葉、知っている人も少ないだろうな。昔々、三人の聖女が君臨しており、それぞれMM(マリリン・モンロー)、BB(ブリジッド・バルドー)、CC(クラウディア・カルディナーレ)と称されました。
では、これらはどうだろう。NK。TM。MY。OK。KM。NN。AT。SN。MA。
 正解は、僕が今までに好きになった女の子たちだ。聖女だったかって?愚問だね。

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11/19/2009

ロリータ③

 くどいが、もう一回、ロリコンについて書く。
 あれからいろいろ考えた。考えた末に、ロリコンを三つのタイプに分けられるのではないか、という結論に落ち着いた。
 ①「真性ロリコン」②「擬性ロリコン」③「仮性ロリコン」である。
 ①「真性ロリコン」については、これはもうそのまま、である。とにかく思春期以前の少女にのみ積極的欲望を覚えるタイプ。「ロリータ」のハンバートは、成熟した女性とも性的交渉を持ちえたが、彼の場合は美学的・意志的真性ロリコンと呼べるかもしれない。
 ②「擬性ロリコン」。一見、ロリコンのように見えるがロリコンではない。肉体的特徴から言えば、思春期以後の少女、というか女性に欲望が向かうタイプ。では、なぜ、擬性とはいえロリコンと呼べるかと言うと、たとえば顔立ちが童顔、あるいは仕種・服装が幼いなど、少女を連想させるような外見的特徴に欲望が向かうからだ。こう考えると、ロリコンと分類されるようなHなサイトのキャラクターとか、男性誌に登場する美少女像の多くが、真性ロリコンのフィールドから大きく逸脱する。コスチューム、童顔、しゃべり口調はともかく、肉体的には成熟しているわけだから、そのギャップに魅かれているだけなわけで、きわめて健全である(でしょ?でもないか?)。で、ほとんどの「ロリコン」と呼ばれる人たちは、このカテゴリーに属するのではなかろうか。安心してファンタジーを楽しみたまえ。
 ③「仮性ロリコン」。これがなかなか難物。意外と一番危険なのはこのタイプではないか。何よりも真性と仮性を隔てるのは、「少女」という概念に対するその愛の深さであろう。仮性ロリコンは、いろいろなコンプレックスを解決できぬまま抱え込み、それゆえに弱者としての少女に対して欲望が向かう存在、と僕は定義する。もちろん、仮性とはいえロリコンだから、ハンバートの言う「ニンフェット」へのベクトルもあろう、しかし病んだ部分を取り除けば、大人の女性へとエロスが流れるようなロリコンである。
 「ロリータ」の話だが、ハンバートは、母を亡くしたロリータと、あちこちを車でさまようのだが、このあたりから小説は、その悪魔的な求心力を失っていく。少女偏愛の話から、もっと普遍的な愛の物語になるからだ。それに気づかぬハンバートを、ロリータが捨てたのも無理はない。ロリータはすでにニンフェットではなく、男を愛するひとりの女に化身していたのだった。

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11/11/2009

ロリータ②

 書かねばならぬ。なぜか自分でそう思い決めて「ロリータ」の続き。
 ロリータに恋をする主人公ハンバートによると、「少女は九歳から十四歳までのあいだに、自分よりも何倍も年上のある種の魅せられた旅人に対して、人間らしからぬ、ニンフのような(つまり悪魔的な)本性を現すことがある」(新潮文庫版『ロリータ』大久保康夫訳)という。そしてこういう特質を持った少女のことを彼は「ニンフェット」と呼ぶ。
 実は物語の最初の部分で、彼は二十四年前、自身が少年だったときのある少女との官能を伴った初恋のことを語るのだが、彼はその少女はニンフェットではなかった、と言う。当然だ。彼は少女と同年代だったのだから。だけどその残像のようなものは、のちまでずっと彼をとらえ続け、二十四年後ロリータに化身させることで初めて開放された、と語る。
 となると、彼は単なる追憶者なのか。
 ハンバートは、自分の俗悪さ、醜怪さをこれでもかと告白し、それとは対極にあるニンフェットの美を賛美する。ロリータが成熟するに従い、その特有の美を失っていくのを想像しては幾度となく嘆く。彼は決して処女崇拝者ではない。だから、ロリータがすでに処女ではなかったと知っても、大して落胆もしていない。どころか、欲望にとらわれるや、狂ったように何度も何度もロリータを抱くのである。
 それも当然か。彼の愛の対象とは「純潔」にあるのではなく、刻一刻失われる運命にあるニンフェットの美である。彼は時間と格闘しているのだ。それが永遠に失われる前に、すべてを飲み干そうとしているのだ。
 前回も書いたことなのだけど、僕は少女を見ることが苦手だ。見ることは、しばしば欲望することと同義だ、と本能的に知っているからかもしれない。となると僕もアブナイ。自戒せねばならぬ。
 物語中こんな記述がある。「成熟の第二の有力な徴候は、色素をおびた恥毛が発生することだ(十一年二ヶ月)」。ハンバートにとっては欲望の臨界点なわけだが、試しに「少女の性器」、とこう書いてみるだけでも、ロリータ・ノンケであるはずの僕ですら、めまいに似たような感覚に襲われる。うーん。
 ところで、こちらのポルノ雑誌、どうしてヘアを剃ったモデルがかくも多いのか。もちろん、見せるべき部分をきちんと見せる、という商業的要請もあるからだろうけど、それだけかしら。長い間、裸体画にヘアを描かない伝統と結びついている可能性もある。それとも、ヘアが写っているなんて喜んでいるようでは、まだまだエロティシズムの洗練の度合いが低い、ということなのか。でも僕は春画派。あぶな絵は日本の誇り、などとよく分からないままで今回はおしまい。

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11/03/2009

ロリータ①

 たとえば妙齢のミニスカートの女性が、地下鉄の階段を昇っていたとする。そして後に続く僕の目には、まっすぐ伸びた脚のつけ根を覆う白い布切れがちらちらと。おお何たる僥倖、僕は世界一の幸せ者だ。
 ところが、公園のベンチに座っている僕の目の前で、まだあどけない九つかそこらの少女が、リスに餌をやろうとしゃがみこんだ、その瞬間、イチゴのプリントされた下着が目に飛び込んでくるやいなや、僕は目をそむけるに違いない。なぜだ?
 無防備な状態にある存在を見るというエロティシズムは確かに成立する。のぞきがそうだし、盗撮もそうだ。だけど、成熟した肉体が対象のときよりも、そうでないときの方が、ドギマギ度が高いことを考えれば、実は高度のエロティシズムとは未成熟な肉体を通してこそ実現するのではないか、という仮定も成り立つ。
 この理屈に対して、敢然とイエス、と言い切ったのはロシア生まれ、ケンブリッジで学んだのちアメリカに渡ったナボコフである。しかし、彼の「ロリータ」という作品、なかなか一筋縄ではいかない。
 「ロリータ」を読んでいると、何というか、これが作家の力量なのだろう、主人公ハンバート・ハンバートとナボコフが同一視されてきて、この作家は本物の変態だ、となんだかぐったり疲れてしまうが、彼自身は「文学作品とは、美的悦楽を与えるものだ」というようなことを自作のあとがきに書いていて、極めて知的な創作(精神)活動の産物だったのだなと、どこかほっともさせられる。だけど怪物的作家であったことは間違いない。
 「ロリータ」は、いわゆるロリコンの小説ではない。もちろん、「ロリータ・コンプレックス」という言葉はこの小説から造られたわけだけど、ハンバート・ハンバートをロリコンと形容するのは無理があると思う。僕にとって、ロリコンと呼んでも良さそうなのは、「不思議の国のアリス」で知られる作家ルイス・キャロルなんかで、生涯独身だったり、どこか閉塞的な私生活など、現代のオタク的ロリコン像と重なるところも多い。
 あれ、まずいか、オタクなんて言葉。ひと括りにできないのだ。自分のファンタジーの中だけで、たとえばロリコンという虚構を虚構として楽しむ、という人たちが、現在のロリコンと呼ばれる人たちの圧倒的多数だろうから、つまりそういう意味で、ルイス・キャロルは現代的なのである。
 ところが、ハンバートは違う。ファンタジーを実存的に生きようとした、いわば行動の人なのである。ファンタジーを突き抜けてしまっているわけで、その分、狂気に近い。紙面が尽きた。次回へ。

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