ゼフィレッリ監督の68年の「ロミオとジュリエット」には仕掛けがある、と前回書いた。今からご披露する。初めてこれに気がついたとき、僕は自分の眼力に陶然となった。
それは「もっこり」と「胸の谷間」である。
冒頭、カメラは霧の町を俯瞰し、荘厳なムードを醸し出す。そして本編に入るや、市の並び立つ広場。画面左上から若者たちが歩いてくる。目は当然そちらを追う、そして。おや、あれは何だ。股間がもっこり。そして何やらちらちらするものが。
あれは何と呼べばよいのか。性器袋では直截すぎる。股間当て、では生理用ナプキンのようで誤解を生みそうだ。しっくりとはこないが、イチモツ・サックと命名する。駄目か?とにかくこのイチモツ・サックにはご丁寧にもひげのような飾りまで付いていて、どうしたって観客の目がそこに向くようになっている。しかも映画の最初の部分だから、観客の無意識の中に、このイチモツ・サックはしっかりと刷り込まれるに違いない。
そしてジュリエット。最初は体型がてんで分からないような衣装で登場するのだが、例の屋敷の庭での「ロミオよロミオ、あなたはどうしてロミオなの」のシーン。物思いにふけるジュリエット(オリビア・ハッセー)のあどけない表情とともにカメラは胸の谷間をも写し続ける。これは結構インパクトがあるよ。
映画の後半、淡いものだが二人のベッドシーンが描かれることからも、このもっこりと胸の谷間は絶対に仕組んでやったことに違いない。で、この仕掛けがあるから、二人の悲劇の本質が、嵐のような性愛に目覚めたことにある、というコンセプトが明確になったのだ。
ちなみにこの作品、アカデミー衣装賞を受賞している。まことに恐るべきは、イチモツ・サックと胸の谷間。
さて、もっこりだが、中学2年のときだったろうか、確かマーゴット・フォンテインとヌレエフのバレエ「白鳥の湖」の記録映画を見に行った。僕の通っていた中学では、年に二度ほど校外の劇場へ、全生徒で映画を見に行くという行事があったのだ。どなたの発案でバレエになったのかは知らないけれど、先生、見事な教育効果でした。翌日、全校中がヌレエフのもっこりの話題でもちきりでしたよ。性教育の一環だったのだろう。少し遠回りな気もするが。
僕が自分のもっこりに気づき、これが気になりだしたのは、小学校5年くらいのときだったと思う。と同時に、同級生の胸のふくらみにやたら目が行くようになった。サトコちゃん、どーしているかなー。
ぴったりしたズボンなど身につけると、今でもやはりもっこりが気になるのだが、彼女いわく。「全然目立ちません」。へい。よくご存知で。
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10/28/2009
10/19/2009
ロミオとジュリエット①
ディカプリオもいいけれど、やっぱりレナード・ホワイティングだろう。そう、これでピンときた人は、僕とほぼ同世代。ロミオを演じた役者である。そしてオリビア・ハッセー、一世一代の当たり役ジュリエット。
六十八年のイギリス・イタリア合作の「ロミオとジュリエット」は、フランコ・ゼフィレッリ監督の作品。この人はなかなか器用な人で、「チャンプ」のような泣かせものもそつなくこなすが、どちらかと言えば文芸物が得意のようだ。比較的最近の「ジェイン・エア」も彼の監督作品だ。
で、ゼフィレッリ監督の「ロミオとジュリエット」だが、まだ十四にもならぬ少女ジュリエットとロミオの「幼い恋」という要素を前面に押し出した。だからこそ、極めてリアリティあふれる作品に仕上がっていたのだと思う。
たとえばジュリエットは、いつもちょこまかと走り回り、些細なことにも絶えず笑い転げている。また、初めて二人が出会う舞踏会のシーン。カメラは輪舞のさなかの二人を追い、猛烈なスピードで回転する。子供たちが遊園地のコーヒー・カップ(古いな)のハンドルをむやみにぐるぐる回して喜ぶ姿にも似ている。あるいは、二人の悲劇の発端となるマキューシオの決闘・死のシーンなど、半ば冗談半分の戯れ。それがアクシデントで現実のものとなってしまったという扱い方も、彼らの幼さをあらわしている。
だから、彼らの大げさなセリフも真に迫るのだ-とは言っても、映画では字幕がなければ、何を言っているのか分からないのだけど。シェイクスピア劇ってのはこのあたりがつらいな、なんて、じゃあ現代劇なら英語をちゃんと聞き取れているのかい?と、ひとり突っ込み。
それにしても、初恋というのはいつも大げさなものである。思い起こせば、中三の修学旅行の夜、僕が始めて恋心を打ち明けたマユミちゃん(おい、本名書いちゃったよ)。どうして修学旅行まで待たねばならなかったか、よく分からないのだけど、やはり思いつめていたのだろう。それなりの舞台が必要だったのだ。
おお、彼女の唇は何にもまして愛らしく、瞳は深いグレイ。胸は夢と若さにはちきれそうだった。年を経た今。その同じ唇で、焼きそばか何かをすすり(昔も食っていたはずだが)、目にはコンタクト(いいじゃないか)、赤ん坊(とは限らないが)に乳房を吸わせたりしているのだろうよ。
だけど修学旅行から帰ってきた僕は、生まれて初めて、頬を風がなでていくのを感じたのを今でも覚えている。ロミオとジュリエットの恋というのは、あの風のことなんだ。
ゼフィレッリ監督の「ロミオとジュリエット」には実は仕掛けがあって、これについては次回。
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六十八年のイギリス・イタリア合作の「ロミオとジュリエット」は、フランコ・ゼフィレッリ監督の作品。この人はなかなか器用な人で、「チャンプ」のような泣かせものもそつなくこなすが、どちらかと言えば文芸物が得意のようだ。比較的最近の「ジェイン・エア」も彼の監督作品だ。
で、ゼフィレッリ監督の「ロミオとジュリエット」だが、まだ十四にもならぬ少女ジュリエットとロミオの「幼い恋」という要素を前面に押し出した。だからこそ、極めてリアリティあふれる作品に仕上がっていたのだと思う。
たとえばジュリエットは、いつもちょこまかと走り回り、些細なことにも絶えず笑い転げている。また、初めて二人が出会う舞踏会のシーン。カメラは輪舞のさなかの二人を追い、猛烈なスピードで回転する。子供たちが遊園地のコーヒー・カップ(古いな)のハンドルをむやみにぐるぐる回して喜ぶ姿にも似ている。あるいは、二人の悲劇の発端となるマキューシオの決闘・死のシーンなど、半ば冗談半分の戯れ。それがアクシデントで現実のものとなってしまったという扱い方も、彼らの幼さをあらわしている。
だから、彼らの大げさなセリフも真に迫るのだ-とは言っても、映画では字幕がなければ、何を言っているのか分からないのだけど。シェイクスピア劇ってのはこのあたりがつらいな、なんて、じゃあ現代劇なら英語をちゃんと聞き取れているのかい?と、ひとり突っ込み。
それにしても、初恋というのはいつも大げさなものである。思い起こせば、中三の修学旅行の夜、僕が始めて恋心を打ち明けたマユミちゃん(おい、本名書いちゃったよ)。どうして修学旅行まで待たねばならなかったか、よく分からないのだけど、やはり思いつめていたのだろう。それなりの舞台が必要だったのだ。
おお、彼女の唇は何にもまして愛らしく、瞳は深いグレイ。胸は夢と若さにはちきれそうだった。年を経た今。その同じ唇で、焼きそばか何かをすすり(昔も食っていたはずだが)、目にはコンタクト(いいじゃないか)、赤ん坊(とは限らないが)に乳房を吸わせたりしているのだろうよ。
だけど修学旅行から帰ってきた僕は、生まれて初めて、頬を風がなでていくのを感じたのを今でも覚えている。ロミオとジュリエットの恋というのは、あの風のことなんだ。
ゼフィレッリ監督の「ロミオとジュリエット」には実は仕掛けがあって、これについては次回。
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10/07/2009
シェイクスピア
調子に乗って、言わずもがなのことをポロリ、言ってしまうことがある。ある時、公の場といってもいい所で、シェイクスピアに関して、「ひと言で言えば、嫌な奴」と口走ったところ、あるご婦人から猛烈なお叱りを受けた。いやあ、怖かった。何も僕などの言うことに、そう目くじらを立てることもなかろうにと思ったのだが。
考えてもみて欲しい。そもそもシェイクスピア、謎が多い人物で、文体はばらばら、残されたエピソードからうかがい知れる人格は支離滅裂、複数説まである御仁である。
ストラトフォード時代、年上のアンとの恋愛沙汰も、妊娠させた上逃げ出すつもりだったという説もあるし、彼女との結婚も先方の親族の脅迫に遭ってしぶしぶだったという話もある。もちろん、純愛のように描く人も多いけどね。ロンドンに出てからの舞台創作での天才の発揮はさすがだが、借金はなかなか返さないわ、逆に自分の貸した金は容赦なく取り立てるわ、おいおい、お前はシャイロックか?揚げ句の果てに妻に遺言で残したものは、「二番目に良いベッド」のみ。これいい奴かと問われれば、やっぱりヤな奴だろう。僕は間違っていますでしょうか?
でも、「恋におちたシェイクスピア」は、なかなか良い映画だった。アカデミー賞を何本も独占するほどの傑作とは思わないが、愛に満ちた佳品である。
内容は「ロミオとジュリエット」誕生の裏話といった、割と他愛のないものなのだが、SFXを駆使した映像で、目を驚かせるような作品が多い中、何か舞台劇を作るように映画を作る、そういう手作りの喜びのようなものがフィルムの中に満ち溢れていた。いわば映画制作そのものへの愛、に対してオスカーは与えられたのだと思う。
グウィネス・パルトロウの男装、ヌードも目に楽しいのだけど、シェイクスピアを演じたジョゼフ・ファインズの演技が、なかなか説得力があった。つまり、僕の中にある「シェイクスピア=嫌な奴」というイメージと必ずしも相反さないのである。いったん思い込んだらまっしぐら、しかもどこに行くのか分からない。そんなキャラクターは、その場の思いつきでころころ変わるかに見える天才の一端を、確かに捉えていたのではないか、と思った。
先のご婦人、彼にまつわるいろんなエピソードをしっかり知ったうえで、シェイクスピアに恋していたのだ。変幻自在、神出鬼没。善悪の両義性。聖性と俗物。いやぁ、四百年の時を経て、これだけ女性を魅了する男というのは、やっぱりすごい。見習わなければならぬ。僕なども、よく嫌な奴と言われるが、これは褒め言葉なのだ。
とにかく。恋する女性の相手のことは、決して悪く言ってはいけません。
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考えてもみて欲しい。そもそもシェイクスピア、謎が多い人物で、文体はばらばら、残されたエピソードからうかがい知れる人格は支離滅裂、複数説まである御仁である。
ストラトフォード時代、年上のアンとの恋愛沙汰も、妊娠させた上逃げ出すつもりだったという説もあるし、彼女との結婚も先方の親族の脅迫に遭ってしぶしぶだったという話もある。もちろん、純愛のように描く人も多いけどね。ロンドンに出てからの舞台創作での天才の発揮はさすがだが、借金はなかなか返さないわ、逆に自分の貸した金は容赦なく取り立てるわ、おいおい、お前はシャイロックか?揚げ句の果てに妻に遺言で残したものは、「二番目に良いベッド」のみ。これいい奴かと問われれば、やっぱりヤな奴だろう。僕は間違っていますでしょうか?
でも、「恋におちたシェイクスピア」は、なかなか良い映画だった。アカデミー賞を何本も独占するほどの傑作とは思わないが、愛に満ちた佳品である。
内容は「ロミオとジュリエット」誕生の裏話といった、割と他愛のないものなのだが、SFXを駆使した映像で、目を驚かせるような作品が多い中、何か舞台劇を作るように映画を作る、そういう手作りの喜びのようなものがフィルムの中に満ち溢れていた。いわば映画制作そのものへの愛、に対してオスカーは与えられたのだと思う。
グウィネス・パルトロウの男装、ヌードも目に楽しいのだけど、シェイクスピアを演じたジョゼフ・ファインズの演技が、なかなか説得力があった。つまり、僕の中にある「シェイクスピア=嫌な奴」というイメージと必ずしも相反さないのである。いったん思い込んだらまっしぐら、しかもどこに行くのか分からない。そんなキャラクターは、その場の思いつきでころころ変わるかに見える天才の一端を、確かに捉えていたのではないか、と思った。
先のご婦人、彼にまつわるいろんなエピソードをしっかり知ったうえで、シェイクスピアに恋していたのだ。変幻自在、神出鬼没。善悪の両義性。聖性と俗物。いやぁ、四百年の時を経て、これだけ女性を魅了する男というのは、やっぱりすごい。見習わなければならぬ。僕なども、よく嫌な奴と言われるが、これは褒め言葉なのだ。
とにかく。恋する女性の相手のことは、決して悪く言ってはいけません。
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