8/27/2009

ソフィ・ライダーのうさぎ

 昔、太宰治の短編「カチカチ山」を読んでいて、その慧眼にうなったことがあった。例のうさぎを処女、狸を冴えない中年男と断じているのだ。狸は御存知のように、一方的に断罪されるのだが、これは何より中年男が処女うさぎに恋をしたからこそ生まれた結末だというのである。いかにも太宰の被虐的なユーモアもさることながら、ありそうなことである。
 うさぎ、という生物は不思議な存在で、妙に女性を連想させる。バニーガールのコンセプトを発明した人物など、天才ではないかとひたすらひれ伏したくなる。コスプレであるにもかかわらず、すっかり市民権を得ているのは、やっぱりそれくらい万人の心の底にまで響いたからだろう。
 ソフィ・ライダーというロンドン出身の女流アーティストがいる。本来は彫刻家なのだが、幅広い活躍をしていて、ここ数年来、僕は彼女の造るイメージに魅かれている。
 彼女の重要なモチーフに、ミノタウロスとうさぎがある。それぞれ男性・女性の象徴というのは、カリカチュアあるいはデフォルメされた身体的特徴からも明らかだが、描き方が何かちょっと違うんだな、他のアーティストとは。
 世界中の民間伝承に登場するうさぎを、騒々しいトリックスターと捉え、彼らの善悪の両義的性格を論じたのは、人類学者の山口昌男だ。イナバの白うさぎもそうだし、太宰のうさぎもこの範疇に入りそうだ。
 ライダーの描くうさぎには、それに近いものも無くはないが、何か不思議な静謐さが漂う。彼女のうさぎは、あるときは猟犬とおぼしき犬を抱きかかえ、またあるときは手のひらに乗せた子うさぎを見つめ、またミノタウロスと並んでいすに腰掛ける。四つん這いになって歩く「クローリング・レディ・ヘア」なんて体はまるっきり人間の女性だから、随分エロチックなはずなのに、むしろそれらは追憶の中にあるイメージのように心優しい。それは彼女の描くミノタウロスにも共通する。不思議な世界なのである。
 色々考えて思い至ったのだが、たとえば晩年のピカソもよくミノタウロスを描いたが、それは欲望をそのまま体現したような存在だった。それに対してライダーのミノタウロスは決して勃起していない。つまり男性的というより、子供から見た「父」的存在なのだ。そして彼女のうさぎは女性というより「母」的存在なのだろう。だからミノタウロスとレディ・ヘアが並ぶとき、それは、子供の見た静かな夫婦愛というよな趣を醸し出すのではないか。
 僕もうさぎたちが大好きなのだけど、若きハツラツうさぎたちは、僕に見向きもしてくれない。まあその分、ヒドイ目に遭う可能性もないわけだから、ありがたいありがたいと思わなくっちゃ、ね。

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8/20/2009

戦場のメリークリスマス

 前回「オペラ座の怪人」について、ひとつのキスがいかに荒ぶる魂を鎮め得る力を持つか、というようなことを書いたが、映画の中に、似たようなシチュエーションを思い出した。「戦場のメリークリスマス」だ。
 「戦メリ」は、ヴァン・デル・ポストの原作をほぼ忠実に映画化した、大島渚監督の代表作のひとつ。デビッド・ボウイ、坂本龍一、トム・コンティ、ビートたけしといった豪華キャストも話題を呼んだ。
 原作は確か三部から成っていたが、これをひとつにまとめ上げたものだから、映画は構成が少しつらかったと思うし、ボウイと坂本は、主役としては少し線が細かった。それでも力作であったことは間違いない。
 ときは第二次世界大戦。日本の捕虜収容所を舞台にした、日本対西洋(特にイギリス)の異文化接触モノだ。似たような状況設定としては、デビッド・リーン監督の「戦場にかける橋」があるが、こちらは戦争とヒューマニズムといった大きなテーマを扱っていて、比較すると「戦メリ」のテーマは、もう少し繊細微妙だったと思う。
 さて、問題のシーン。坂本演じるヨノイ大尉が、思うようにコントロールできない捕虜たちに業を煮やして、中のひとりを日本刀で処刑しようとする。ボウイ扮するセリアズ少佐がヨノイに歩み寄り、彼の両頬(正確には耳に近いところ)にキスをするのだ。瞬間、陶然とするヨノイ。そして彼は刀を振り下ろす力を失い、卒倒してしまうのだ。
 当時、ヨノイとセリアズの間に通う、ある種のホモセクシャルな感情が多く語られたし、映画の基底音から考えても、演出意図はそこにあったと思う。
 でも、そこまで深読みせずとも、「ああ、キスというのはかくも破壊力があるものなのだなあ」と単純に感心していてもいいんじゃないかな。官能は暴力よりも強し、である。
 そういえば、豊臣秀吉がねねだか誰かにあてた手紙で「早くお前のところに戻って、口を吸いたい」などと書いた物が残っているとか。血なまぐさい時代だけに、はっと息を呑む迫力があるし、手紙を受け取った本人も、うっとりと秀吉のことを思ったに違いない。「お猿・・・」。
 「ニューシネマパラダイス」という映画があった。前半があまりに美しくて、後半はなんだか散漫な印象しかないのだが、最後の最後が良かった。過去の映画のキスシーンのオンパレードである。ここだけで、胸の中は、シアワセいっぱいになった。
 僕もキスの効用を知っている。傍らの彼女のおしゃべりがあまりにも一方的で、いいかげんな相づちをうつのにも疲れたとき、キスをするのだ。おしゃべりはぴたりと止まり、ほんのひとときでも心安らぐ時間。官能は、言葉の「暴力」よりも強し、である。そのあとがまた大変だけどね。

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8/12/2009

オペラ座の怪人

 果たして成仏できたのかどうか。それが問題だ。
 つい先日、日本から知人が来たので、まあめったにないことと奮発してミュージカル「オペラ座の怪人」を見に行った。これが知人であって、愛人でないところがなんとも色気がないのだけれど、怪人でも変人でもなかったので、まあいいか。
 数年前にこの舞台、僕は一度見ていて、そのときは大して感心しなかったのだが、今回は素晴らしく良かった。ヒロインの歌姫クリスティーン役の女優は今ひとつだが、ファントム役のスコット・デイヴィースという役者が見事で、僕は不覚にも涙が出そうになった。
 このデイヴィース氏、憑依体質なのだろう、ほら、たまにいるでしょう、放っておくと一人でしゃべって、勝手にどんどん何かにとりつかれていく人。きっと、そういうタイプなのだ。とにかく、同じ演目でも演者によって、こんなにも印象が変わってくるのだと改めて実感した。
 「オペラ座の怪人」は、ファントムと、彼に魅入られた歌姫クリスティーン、そして彼女に恋するラウルとの三角関係を描いた恋愛ドラマである。
 愛するクリスティーンを守らん(?)がため、ファントムにより殺人が繰り返されたのち、舞台はクライマックス。助命を乞うクリスティーンを無視して、ファントムはラウルの首にロープをかけ今にも彼を殺してしまおうとする。彼女もラウルを愛しながらもまた、ファントムの魔力から逃れられないのだ。ファントムは悲痛な声で彼女に叫ぶ。「(どちらをえらぶのか)決断しろ!」。
 クリスティーンは、ファントムの元へ寄りキスし、強く抱擁する。ファントムはしかし、抱き返せない。再びキス。やはり彼の手は震えるだけで、とうとうあれほど愛した彼女のことを抱けないのだ。そして今度は彼が決意する。恋敵の首に巻いたロープを切ってやるのだ。恋人たちは手を取り合って幽界から脱出する。クリスティーンが一度戻ってくるが、これは先にファントムから与えられたリングを返すためであった。つらいなあ、これ。ファントムは一人孤独に心情を吐露したのち、どこへともなく消え去る。
 あのクリスティーンのキスと抱擁は何だったのか。
 ともかく、生者のキスと抱擁は、死者にはあまりにも熱すぎたのだ。だからファントムは抱き返すことが出来なかった。死者であるファントムは死者の世界を知り過ぎているがゆえに、生者のキスと抱擁を受けて、彼女への想いを断ち切らねばならなかったのだ。
 果たしてファントムは成仏できたかどうか。彼は自らを「エンジェル・オブ・ミュージック」と称していた。このあたりに答えがあるかもしれない。
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8/05/2009

リチャード3世

 異形の者は、ときに極めてエロティックな存在だ。そのエロティシズムとは、たとえば「セクシー」なんて、良識や常識と折り合いをつけたような言葉で表現されるようなものでなく、もっと、深遠を覗きこんだときの恐怖に近いものだ。
 シェイクスピアの描いたリチャード3世は、まさしく異形の者だ。冒頭の独白で、彼は己れの異形を呪い、いわば世界に対する復讐の念から、王位の簒奪を誓う。
 言うまでもなく、リチャード3世は実在の人物。薔薇戦争で有名なヨーク家の最後の王である。シェイクスピアは、史実を踏まえながら想像力を駆使し、ピカレスク・ロマンといった趣の舞台劇を創り上げた。
 ストーリーを追うのはよそう。ここでは、二人の女性を採り上げる。
 アン。彼女は夫と義理の父をリチャードに殺され、喪に服している。リチャードは彼女の財力に目をつけたのだろう、言葉巧みに言い寄る。彼にはアンに対する愛情のひとかけらもない。あるのは悪魔的な野心だけだ。しかし、最初、唾を吐き掛けたほど憎い男に、アンはころりとだまされて、リチャードの妻となることに同意するのだ。
 乱世の中、後ろ盾を失った女性の、保身の知恵とも読めるだろう。だが、このむしろ陽気で饒舌な異形のリチャードに、シェイクスピアは強烈なエロティシズムを発見していたのではなかったか。破滅的だが計算高く、冷徹だが茶目っ気もある。見え透いた甘言だと知りつつも、相手が怪物なればこそ、己れの中のおぞましいものを覗き込む快楽に、アンが流されていったのも不思議ではない。そもそもエロティシズムとは、タブーを犯す悦びから生まれるものだ。
 リチャードは、兄王の没後、その跡取りである少年王を殺害して、王位強奪を成就する。妻アンを謀殺したあと、今度は少年王の母親でもある前王妃エリザベスに目をつける。本当の狙いは彼女の一人娘の王女である。エリザベスもまんまとリチャードの口車に乗り、協力することを約束するものの、政治情勢の急転により、彼の謀略は最終的には成功しない。
 しかし違う読み方もできよう。今回のリチャードの誘惑は、エリザベス本人に向けられたものではないのだ。これが本人に対するものであったらどうか。僕はリチャードの魅力に、エリザベスもやはり屈したような気がするのだけど。「女」ではなく、「母」エリザベスを口説いたところに、リチャードの敗因があったのだ。
 ヘンリー7世との最後の決戦で、リチャードは死闘を展開する。馬を失い、彼は叫ぶ。「馬をくれ、馬を!俺の王国を代わりにやろう」。最後に強烈なエロティシズムをまき散らしながら、この異形の悪魔は戦死する。

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