1869年10月10日、ロセッティは、7年前に自殺した妻リジーとともに埋葬した自作の詩の手稿を取り戻すため、彼女の墓をあばいた。新しいミューズにして恋人、そしてウィリアム・モリスの妻であるジェーンに捧げる詩集を編むためである。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティには、様々なエピソードがある。20歳で、後にヴィクトリア絵画の主流を形づくるラファエル前派兄弟団を結成。リジーとの長い婚約期間、そして彼女の死期を意識してからの結婚、彼女の自殺。かつての同士、ハントの妻との不貞。ジェーンとの蜜月。自殺未遂。そして神経衰弱、薬物中毒。死。恋することに殉じた破滅型の画家・詩人である。
色々と気になる人物だが、今回は墓を掘り返した事件から考えたい。
この心理、一体どう説明したものか。元はと言えば、リジーのために書きためた詩であろう。だから、彼女の死とともに埋葬されたのだ。一説によると、この手稿、彼女の遺体の髪の傍らに置かれていたという。一体どういった気持ちで再び手にしたものか。芸術家の心には悪魔が棲む。きれいはきたない、きたないはきれい、か。
妻を寝取られたモリスは、この二人の関係の隠蔽に躍起となるが、ロセッティは、彼の作品・人格を攻撃する批評が発表されたのを機に神経を病み、やがてジェーンとの恋愛も終わる。
一見、常軌を逸しているとはいえ、ジェーンをいわゆる「最後の女」とみなせば、墓掘りのエピソードは、純愛ストーリーとして収束されそうだ。しかし仮に、ジェーンにリジーと同じことが起きたとしたら、果たして彼はどうしたか。同じことを繰り返さなかったか。もしそうならば、彼の詩はもはや、リジーやジェーンといった生身の女性に捧げられたものとは言えまい。彼女たちの先にいる女性に捧げられたものになるのだ。
ロセッティの描く女性像は、皆、不思議と印象が似ている。豊かな髪、官能的な唇、太い首。性的魅力に富んでいるが男性的な印象。ロセッティは、彼の「永遠の女性」にとりつかれていたのだ。
「永遠の女性」にとりつかれた男に選ばれ愛された女性は、幸福だろうか。作品で永遠の生を与えられたとしても。
晩年性格が変わったが、若い頃のロセッティは、情熱的でカリスマ的だったという。きっと女性に甘えるのもうまかったのであろう。ひとりよがり、高慢、夢見がち。そんな彼を、やっぱり彼女たちは愛したのであろう。何となく、彼の描く女性像は、原始的な強い母性をそなえているようにも見える。
僕もときどき、犬神様やキツネにとりつかれるが、そんなんじゃ、やっぱり駄目なんだろうね。
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7/29/2009
ヴィクトリア絵画
イギリスに来て、良かったかなと思うことのひとつに、ラファエル前派に代表されるヴィクトリア絵画の再発見がある。
随分以前に、日本のデパートで、かなり大がかりなラファエル前派の展覧会を見ている。が、そのときの僕は、ポロックなどに代表される抽象表現主義に共感していたので、その少女趣味的ともいえるテイストに、ぴんと来なかった。
ロンドンに来て、無料が嬉しくって、テイト・ギャラリー(現テイト・ブリテン)にたびたび寄っていたのだが、そのうち自分の嗜好が変わっているのに気付き、びっくりした。
ラファエル前派とその追随者たちは、もちろん風景、あるいは当時の社会問題などにも題材を採っているが、やはり聖書や神話・伝説などに霊感を得ている作品がより良く知られているだろう。一方、当時のヨーロッパでは、主題よりも、色彩や構図といった絵画の属性そのものが追究され、これが現代絵画の主流となっていく。絵画の「自律化」である。ヴィクトリア絵画は、絵画史の流れでいえば、傍流だ。文学的な要素にあまりにも寄り添い過ぎていることが、絵画の自律化に逆行しているからであろう。
若い頃の僕は、そう考えていた。では一体、何が変わったのだろう。そうだ、僕自身が、何か大きな「物語」を要求し出していたのだ。あるいは「神話的世界」とつながることを欲していたのだ。そう思い至ったとき、ヴィクトリア絵画のアプローチというのは、きわめて重要なテーマを抱えていたのではないかと思えてきたのだった。
切り口を変えよう。
97年にロイヤル・アカデミーで開催されて大評判を採った「センセーション」展は、当時僕も大きな期待をもって見に行った。感想はがっかり、となるほど、のふたつ。がっかりの部分は飛ばそう。なるほど、と思ったのは、会場にBGMとして、かすかに教会音楽が流れていたからだ。並べられていた作品は、奇怪なもの、「穢れ」を象徴するもの、性的なもの、現代文明を象徴するかのような無機的なもの。しかし宗教音楽が流れていることから、無意識のうちに、これらの作品群を自分たちの生の代用品として、生贄に捧げるといった心理的メカニズムがそこでは働いていたと思う。カタルシスを覚えた観客もいただろう。
大きな「物語」とつながる、とは、つまりそういうことだ。
イギリスが世界一の工業国として君臨したこのヴィクトリア時代に、聖書やら、妖精やら、アーサー王たちのイメージが噴出してきたというのは興味深い。現代におけるコンピュータ・ゲームの流行も、同じ文脈で読み取れるのではないかな。
前置きが長くなったが、この時代の画家として、僕が最も気になるロセッティを次回に。
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随分以前に、日本のデパートで、かなり大がかりなラファエル前派の展覧会を見ている。が、そのときの僕は、ポロックなどに代表される抽象表現主義に共感していたので、その少女趣味的ともいえるテイストに、ぴんと来なかった。
ロンドンに来て、無料が嬉しくって、テイト・ギャラリー(現テイト・ブリテン)にたびたび寄っていたのだが、そのうち自分の嗜好が変わっているのに気付き、びっくりした。
ラファエル前派とその追随者たちは、もちろん風景、あるいは当時の社会問題などにも題材を採っているが、やはり聖書や神話・伝説などに霊感を得ている作品がより良く知られているだろう。一方、当時のヨーロッパでは、主題よりも、色彩や構図といった絵画の属性そのものが追究され、これが現代絵画の主流となっていく。絵画の「自律化」である。ヴィクトリア絵画は、絵画史の流れでいえば、傍流だ。文学的な要素にあまりにも寄り添い過ぎていることが、絵画の自律化に逆行しているからであろう。
若い頃の僕は、そう考えていた。では一体、何が変わったのだろう。そうだ、僕自身が、何か大きな「物語」を要求し出していたのだ。あるいは「神話的世界」とつながることを欲していたのだ。そう思い至ったとき、ヴィクトリア絵画のアプローチというのは、きわめて重要なテーマを抱えていたのではないかと思えてきたのだった。
切り口を変えよう。
97年にロイヤル・アカデミーで開催されて大評判を採った「センセーション」展は、当時僕も大きな期待をもって見に行った。感想はがっかり、となるほど、のふたつ。がっかりの部分は飛ばそう。なるほど、と思ったのは、会場にBGMとして、かすかに教会音楽が流れていたからだ。並べられていた作品は、奇怪なもの、「穢れ」を象徴するもの、性的なもの、現代文明を象徴するかのような無機的なもの。しかし宗教音楽が流れていることから、無意識のうちに、これらの作品群を自分たちの生の代用品として、生贄に捧げるといった心理的メカニズムがそこでは働いていたと思う。カタルシスを覚えた観客もいただろう。
大きな「物語」とつながる、とは、つまりそういうことだ。
イギリスが世界一の工業国として君臨したこのヴィクトリア時代に、聖書やら、妖精やら、アーサー王たちのイメージが噴出してきたというのは興味深い。現代におけるコンピュータ・ゲームの流行も、同じ文脈で読み取れるのではないかな。
前置きが長くなったが、この時代の画家として、僕が最も気になるロセッティを次回に。
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王妃グィネヴィアとサー・ラーンスロット②
先にアーサー王のことを書いたが、この伝説の中に僕の好きなエピソードがある。
王妃グィネヴィアが五月のある日、身近の従臣たちだけをつれて五月祭のための花摘みに出かけた。ところが、かねてから王妃に想いを寄せていた勢力者マレアガンスに、一行は捕らえられてしまう。王妃は、小姓を逃がし、ラーンスロットに助けを求める(自分の夫に、ではないのですね。恋人にまず伝えるのですぞ)。
知らせを受けたラーンスロットは、数々の苦難を乗り越え、ようやく王妃が幽閉されている城の前にたどり着く。が、ライオンと豹とに襲われ、これらを倒すものの、自分も重傷を負う。傷の癒える間もなく、彼はマレアガンスと一騎打ちを行うが、衰弱した体は、本来の力を発揮することを許さず、勝負が危ぶまれる。
と、そのときグィネヴィアが叫ぶのだ。「ああ、ラーンスロット!私の騎士よ、人の話ではあなたはもう私にふさわしい者ではないと聞いていましたが、やはり本当だったのですね!」(トマス・ブルフィンチ著、大久保博訳「中世騎士物語」角川文庫)。この一言で彼は気力を回復し、見事、敵を打ちのめす。
恋をしているときの男にとって、しかもその男が苦境に立たされているとき、女の叫びというのは、かくも絶大な影響力を持つものである。信じられないかもしれないが、本当なのだ。その証拠に、このパターン、何度繰り返し繰り返し、現代にいたるまで描かれ続けてきたことだろうか。
ちょっとひねってはあるが、「あしたのジョー」だってそうだったはずだ。丹下段平がいくら「立て、立つんだジョー」なんて絶叫したところで、彼を支えていたのは、かつて彼と拳を合わせたボクサーたちの幻とともに、白木葉子の存在だったはずだ。僕なら、丹下段平じゃ嫌だ。寝てる。
ひょっとすると、これは全人類が共有するイメージかも知れない。子供の叫びによって回復する主人公、というのはこの亜流だろう。スカッとするんだな、これが。女性はこういうシーンをどんな風に感じながら見るのだろう。
ご免ね陽子ちゃん。小学校四年のとき、君が応援してくれたのに、目の前で転んでみんなに抜かされて。ご免ね恵子ちゃん。中学一年のとき、君の目の前で騎馬戦のとき落馬して。ご免ね真由美ちゃん。中学三年のとき、飛び込み方が悪かったんだ、プールの底で頭打っちゃった。ご免ね由加利ちゃん。高二のとき、せっかくオーディション聞きにきてくれたのに、アガッちゃって頭真っ白。ご免ね啓子。大学一年のとき、まだ慣れていなくって御免なさい済みません申し訳ないご免なさい。
そして僕は、立派な大人になった。
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王妃グィネヴィアが五月のある日、身近の従臣たちだけをつれて五月祭のための花摘みに出かけた。ところが、かねてから王妃に想いを寄せていた勢力者マレアガンスに、一行は捕らえられてしまう。王妃は、小姓を逃がし、ラーンスロットに助けを求める(自分の夫に、ではないのですね。恋人にまず伝えるのですぞ)。
知らせを受けたラーンスロットは、数々の苦難を乗り越え、ようやく王妃が幽閉されている城の前にたどり着く。が、ライオンと豹とに襲われ、これらを倒すものの、自分も重傷を負う。傷の癒える間もなく、彼はマレアガンスと一騎打ちを行うが、衰弱した体は、本来の力を発揮することを許さず、勝負が危ぶまれる。
と、そのときグィネヴィアが叫ぶのだ。「ああ、ラーンスロット!私の騎士よ、人の話ではあなたはもう私にふさわしい者ではないと聞いていましたが、やはり本当だったのですね!」(トマス・ブルフィンチ著、大久保博訳「中世騎士物語」角川文庫)。この一言で彼は気力を回復し、見事、敵を打ちのめす。
恋をしているときの男にとって、しかもその男が苦境に立たされているとき、女の叫びというのは、かくも絶大な影響力を持つものである。信じられないかもしれないが、本当なのだ。その証拠に、このパターン、何度繰り返し繰り返し、現代にいたるまで描かれ続けてきたことだろうか。
ちょっとひねってはあるが、「あしたのジョー」だってそうだったはずだ。丹下段平がいくら「立て、立つんだジョー」なんて絶叫したところで、彼を支えていたのは、かつて彼と拳を合わせたボクサーたちの幻とともに、白木葉子の存在だったはずだ。僕なら、丹下段平じゃ嫌だ。寝てる。
ひょっとすると、これは全人類が共有するイメージかも知れない。子供の叫びによって回復する主人公、というのはこの亜流だろう。スカッとするんだな、これが。女性はこういうシーンをどんな風に感じながら見るのだろう。
ご免ね陽子ちゃん。小学校四年のとき、君が応援してくれたのに、目の前で転んでみんなに抜かされて。ご免ね恵子ちゃん。中学一年のとき、君の目の前で騎馬戦のとき落馬して。ご免ね真由美ちゃん。中学三年のとき、飛び込み方が悪かったんだ、プールの底で頭打っちゃった。ご免ね由加利ちゃん。高二のとき、せっかくオーディション聞きにきてくれたのに、アガッちゃって頭真っ白。ご免ね啓子。大学一年のとき、まだ慣れていなくって御免なさい済みません申し訳ないご免なさい。
そして僕は、立派な大人になった。
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王妃グィネヴィアとサー・ラーンスロット①
どうしても分からないのだ。
アーサー王と王妃グィネヴィア、そして、サー・ラーンスロットの三角関係がである。
中世の騎士にとり、貴婦人に忠誠を誓い、その愛の証明として勲功をあげるのは、最高の名誉となる。ラーンスロットの場合、求愛の対象が王妃であった。一途の愛から、彼は騎士の中の騎士となり、王も王妃も彼を寵愛するのだが、このあたりがどうも分からん。
いかに宮廷恋愛が高尚な遊びとはいえ、あからさまな「求愛」は、王の怒りを買わなかったのだろうか。二人の間には肉体関係もあったようなのだが。
アーサーの王国崩壊のきっかけは、実は、王妃とラーンスロットの恋愛にある。アーサーの忠臣の一人が、彼らの関係を「表沙汰」にしてしまうことに始まる。王は王妃を火刑に処することを決断するが、間一髪、ラーンスロットが王妃を救い出す。そして王国は国王派。ラーンスロット派の二つに割れて戦いを始める。
この、王妃救出以降のアーサー王伝説の展開、何かの比喩なのだろうか。
考えられるのは、貴族たちの結婚はあくまで政治。恋愛は遊戯と完全に区別されていたのだろう、ということだ。だから、ラーンスロットが王妃を自分の城へと奪っていった段階で、遊戯は遊戯でなくなった。政治の領域に侵食してしまったのだ。これでは、アーサーも動かざるを得ない。まさしく「恋愛と結婚は別」だったのだ。
ローマ教皇の仲介により、いったんアーサーとラーンスロットの間に和睦が成り立ち、王妃は王の元へと返される。ラーンスロットもおとなしくこれに応じている。こうなるとグィネヴィアも玉(ギョク)、つまりはモノ扱いで、ここに働くのは政治の力学のみである。あれほど子供じみて魅力的だったラーンスロットも、この段階で大人になったというか、政治に堕したというか、なんとなく生彩に欠ける。
さて「腹」より「種(タネ)」を選んだ社会、つまり父系社会というのは、往々にして息苦しいものだが、アーサー王の物語もこんなふうに読めはしないか。彼と王妃の間に子のなかったことを考えれば、王国は、王妃を、王とラーンスロットで共有していたことで成立していた。「種」の発想、逆に言えば、「姦通」の意識にとらわれたとき、このユートピアは崩壊した。
「王妃は、王とラーンスロットと仲睦まじく幸せに暮らし、王国はいつまでも栄えましたとさ」。
こんなオチもあると思うし、「種」よりも「腹」を選んだ社会の心理構造といったものに、僕は興味があるのだけど。
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アーサー王と王妃グィネヴィア、そして、サー・ラーンスロットの三角関係がである。
中世の騎士にとり、貴婦人に忠誠を誓い、その愛の証明として勲功をあげるのは、最高の名誉となる。ラーンスロットの場合、求愛の対象が王妃であった。一途の愛から、彼は騎士の中の騎士となり、王も王妃も彼を寵愛するのだが、このあたりがどうも分からん。
いかに宮廷恋愛が高尚な遊びとはいえ、あからさまな「求愛」は、王の怒りを買わなかったのだろうか。二人の間には肉体関係もあったようなのだが。
アーサーの王国崩壊のきっかけは、実は、王妃とラーンスロットの恋愛にある。アーサーの忠臣の一人が、彼らの関係を「表沙汰」にしてしまうことに始まる。王は王妃を火刑に処することを決断するが、間一髪、ラーンスロットが王妃を救い出す。そして王国は国王派。ラーンスロット派の二つに割れて戦いを始める。
この、王妃救出以降のアーサー王伝説の展開、何かの比喩なのだろうか。
考えられるのは、貴族たちの結婚はあくまで政治。恋愛は遊戯と完全に区別されていたのだろう、ということだ。だから、ラーンスロットが王妃を自分の城へと奪っていった段階で、遊戯は遊戯でなくなった。政治の領域に侵食してしまったのだ。これでは、アーサーも動かざるを得ない。まさしく「恋愛と結婚は別」だったのだ。
ローマ教皇の仲介により、いったんアーサーとラーンスロットの間に和睦が成り立ち、王妃は王の元へと返される。ラーンスロットもおとなしくこれに応じている。こうなるとグィネヴィアも玉(ギョク)、つまりはモノ扱いで、ここに働くのは政治の力学のみである。あれほど子供じみて魅力的だったラーンスロットも、この段階で大人になったというか、政治に堕したというか、なんとなく生彩に欠ける。
さて「腹」より「種(タネ)」を選んだ社会、つまり父系社会というのは、往々にして息苦しいものだが、アーサー王の物語もこんなふうに読めはしないか。彼と王妃の間に子のなかったことを考えれば、王国は、王妃を、王とラーンスロットで共有していたことで成立していた。「種」の発想、逆に言えば、「姦通」の意識にとらわれたとき、このユートピアは崩壊した。
「王妃は、王とラーンスロットと仲睦まじく幸せに暮らし、王国はいつまでも栄えましたとさ」。
こんなオチもあると思うし、「種」よりも「腹」を選んだ社会の心理構造といったものに、僕は興味があるのだけど。
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7/23/2009
愛のかたち
暴挙であった。
編集長にそそのかされて、「愛のかたち」について何かエッセイを書いてみませんか、なんて言われたとき、つい魔がさしたのだ。「フフフ、恋愛を語れ、とは、僕もまんざら捨てたものではないな」
そして考えた。愛のかたちを一生懸命に考えた。
えー、愛のかたちといえば、通常四十八くらいあるといいまして、そのうち僕は三つくらいしか知りませんが、いえ、知っていると言っても、それらが本当に正しいものかどうかも怪しいのですが、日本では、とにかく四十八です。でも、インドあたりでは、どうももっとたくさんあるような気がするのですが、気のせいでしょうか。
あるいは、69なんていう愛のかたちがあります。でもひょっとすると29なんていうのもあるかも知れない。88なんていうのも、なんだかいわくありげに見えてきました。そんなふうに考えてみると、十という漢数字もなんだか、異様な迫力がある。「三位一体」なんていう熟語もなんとも玄妙な味わいがあります・・・。愛は数字の数だけあるのです。
などという、くだらない考えばかりが、ぐるぐるー、ぐるぐるーと頭の中を駆け巡り、早くも発狂しそうである。
原稿を引き受けたのは、暴挙、あるいは愚挙と言うしかあるまい。
そもそも恋愛とは、何ぞや。
フロイトのように、人間を性衝動のポンプのように考え、その性衝動あるいはリビドーが、他者に転移したときに、恋愛感情が始まるとする見方。あるいは、人類が太古より積み重ねてきた性的経験の集積が、各個人の中に遺伝子のように組み込まれていて、それがたまたま他者の中に顕現したとき(アニマやアニムス)、恋愛感情が起こるという、ユング的な見方。バタイユなどは、細胞分裂から説き起こし、「全体性への憧憬」といったようなキーワードで、これを説明しようとする(性的恍惚感、すなわち全体性の獲得、である)。
僕自身の感じからいくと、実はバタイユに最も近い。というか、若い頃に読みすぎて影響されたのだろうが、ともかく。恋をしているときは、何か「失ったものを取り戻す」といったような熱情にいつも駆られているような気がする。
人はどんな風に恋をするのか、僕には分からないが、少なくとも、この「熱情」という部分では共通しているのではないか。パッションは非合理の世界に属する。
人間はこの窮屈な合理の世界を突き崩す非合理を、常に必要としている。ならば数字が支配するこの世界に生きるわれわれにとって、恋愛というのは、非合理な、何か大きな世界に通じる最後の砦なのかも知れない。打算的な結婚はあり得ても、打算的な恋というのは、こりゃ堕落だよね。と、まずは前置き。
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編集長にそそのかされて、「愛のかたち」について何かエッセイを書いてみませんか、なんて言われたとき、つい魔がさしたのだ。「フフフ、恋愛を語れ、とは、僕もまんざら捨てたものではないな」
そして考えた。愛のかたちを一生懸命に考えた。
えー、愛のかたちといえば、通常四十八くらいあるといいまして、そのうち僕は三つくらいしか知りませんが、いえ、知っていると言っても、それらが本当に正しいものかどうかも怪しいのですが、日本では、とにかく四十八です。でも、インドあたりでは、どうももっとたくさんあるような気がするのですが、気のせいでしょうか。
あるいは、69なんていう愛のかたちがあります。でもひょっとすると29なんていうのもあるかも知れない。88なんていうのも、なんだかいわくありげに見えてきました。そんなふうに考えてみると、十という漢数字もなんだか、異様な迫力がある。「三位一体」なんていう熟語もなんとも玄妙な味わいがあります・・・。愛は数字の数だけあるのです。
などという、くだらない考えばかりが、ぐるぐるー、ぐるぐるーと頭の中を駆け巡り、早くも発狂しそうである。
原稿を引き受けたのは、暴挙、あるいは愚挙と言うしかあるまい。
そもそも恋愛とは、何ぞや。
フロイトのように、人間を性衝動のポンプのように考え、その性衝動あるいはリビドーが、他者に転移したときに、恋愛感情が始まるとする見方。あるいは、人類が太古より積み重ねてきた性的経験の集積が、各個人の中に遺伝子のように組み込まれていて、それがたまたま他者の中に顕現したとき(アニマやアニムス)、恋愛感情が起こるという、ユング的な見方。バタイユなどは、細胞分裂から説き起こし、「全体性への憧憬」といったようなキーワードで、これを説明しようとする(性的恍惚感、すなわち全体性の獲得、である)。
僕自身の感じからいくと、実はバタイユに最も近い。というか、若い頃に読みすぎて影響されたのだろうが、ともかく。恋をしているときは、何か「失ったものを取り戻す」といったような熱情にいつも駆られているような気がする。
人はどんな風に恋をするのか、僕には分からないが、少なくとも、この「熱情」という部分では共通しているのではないか。パッションは非合理の世界に属する。
人間はこの窮屈な合理の世界を突き崩す非合理を、常に必要としている。ならば数字が支配するこの世界に生きるわれわれにとって、恋愛というのは、非合理な、何か大きな世界に通じる最後の砦なのかも知れない。打算的な結婚はあり得ても、打算的な恋というのは、こりゃ堕落だよね。と、まずは前置き。
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序
ウェブのデザインを一新した。
一新したついでに、ブログなるものにもこの際だから手を出すかっていうんで思い立ったはいいが、吉日どころか、よっぽどめぐり合わせの悪い日だったに違いない。そのまま手をこまねき、ねえ、何書いたらいいの?状態が延々延々と続き、気が狂いそうになってきた数日前、ふと思いついた。以前、英国を中心に配布されている「英国ニュースダイジェスト」というフリー・ペーパーに連載していたコラムがある。これをこの場に掲載していくってのは駄目ですかって、誰に許可を得ようとしているのか良く分からんが、編集部の許可は取った。
色々苦労して書いていたので、どこかで再発表できればいいなとかねがね思っていたのであった。ただ読み返してみると、当時の心持と今の状態では、結構な距離のあるものもあって、どうかなと思うところもあるけれど、まあそれはそれでいいだろう。
主にヨーロッパに関連する題材から「恋愛を語る」というテーマで毎週、ほぼ1年にわたって連載したのだが、当時思ったのは、「恋愛」は「虚構」であり、仮に恋愛をする「能力」があるとすれば、それはこの「フィクションを作り上げる力」であるということ。「虚構」といえば、なんだか聞こえが悪いが、たとえば優れた芸術作品(これも虚構の一種である)が、絶対者あるいは宇宙とコンタクトを取ることを鑑賞者に許すことで彼あるいは彼女の魂を救うように、恋愛自体が当事者を包み込む寺院の伽藍となり、この舞台で魂の一瞬が永遠と触れスパークする。この考えは今も変わらない。この通奏低音はほぼ全編にわたって聞かれると思うので、現時点との多少の誤差はかまわないだろう。いいことにすると私が今決めた。
前振りもこの辺で。それでは「アシッド恋愛論」の始まり始まり。
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一新したついでに、ブログなるものにもこの際だから手を出すかっていうんで思い立ったはいいが、吉日どころか、よっぽどめぐり合わせの悪い日だったに違いない。そのまま手をこまねき、ねえ、何書いたらいいの?状態が延々延々と続き、気が狂いそうになってきた数日前、ふと思いついた。以前、英国を中心に配布されている「英国ニュースダイジェスト」というフリー・ペーパーに連載していたコラムがある。これをこの場に掲載していくってのは駄目ですかって、誰に許可を得ようとしているのか良く分からんが、編集部の許可は取った。
色々苦労して書いていたので、どこかで再発表できればいいなとかねがね思っていたのであった。ただ読み返してみると、当時の心持と今の状態では、結構な距離のあるものもあって、どうかなと思うところもあるけれど、まあそれはそれでいいだろう。
主にヨーロッパに関連する題材から「恋愛を語る」というテーマで毎週、ほぼ1年にわたって連載したのだが、当時思ったのは、「恋愛」は「虚構」であり、仮に恋愛をする「能力」があるとすれば、それはこの「フィクションを作り上げる力」であるということ。「虚構」といえば、なんだか聞こえが悪いが、たとえば優れた芸術作品(これも虚構の一種である)が、絶対者あるいは宇宙とコンタクトを取ることを鑑賞者に許すことで彼あるいは彼女の魂を救うように、恋愛自体が当事者を包み込む寺院の伽藍となり、この舞台で魂の一瞬が永遠と触れスパークする。この考えは今も変わらない。この通奏低音はほぼ全編にわたって聞かれると思うので、現時点との多少の誤差はかまわないだろう。いいことにすると私が今決めた。
前振りもこの辺で。それでは「アシッド恋愛論」の始まり始まり。
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