世の中にはいろいろなフェチがあって、これはこれで楽しいものである。「LEGS」なんて、足フェチの雑誌があり、脚のきれいなお姉さまたちがその美を競っているのだが、同時に爪先を口にくわえている写真も必ずあって、「この匂いがたまらないの」なんて添え書きがある。清濁混在、臭いという微妙な要素の上にナルシシズムまで加わった玄妙な世界を構築している。なかなかに奥深い。そして最近気づいたのだが、僕はどうやら腹フェチであるらしい。
腹フェチとは何ぞや。つまり女性の平べったいおなかにあまり魅力を感じないのですな。まさか体重240キログラムの八段腹というのはダメだけど、おなかだけがぽっこりと出ていて二段三段くらいならOKらしいのだ。
これ、自分でもなぜだか分析できないのだが、かつて阿刀田高だかの「アラビアン・ナイト」関連の小説かエッセイに、そんなおなか礼賛の記述があって、それに影響を受けたような気がする。ある美女がベッドに横たわるとその豊かなおなかがあたかも大波のように波打ち、男はくらくらしたというような内容に僕はくらくらしたよ。
映画「マディソン郡の橋」に、メリル・ストリープが精いっぱいのお洒落をしてドレスを着るシーンがある。原作では彼女が非常に美しく描写されている場面だ。ところが映画は・・・・どう考えてもストリープ、不恰好なのだ。一方のイーストウッド、その姿を見て美しさのあまり息を呑む、というシーン。
僕もきれいだと感じた。肉体労働で鍛えられた骨太の農婦の必死の、しかも何となくズレためかしこみが、彼女によって巧みに表現されていた。しかし彼女はこんなに不細工な体型の女優だったか?「激流」で披露されたマッチョな(?)肉体美はなんだったのか?
わざとそんな風に撮ったのだろう。監督イーストウッドのストーリー・テラーとしての目の確かさは、そんなところに行き届いている。ひたむきさと恥じらいは、女性の美の本質をかたちづくる要素のひとつだと思う。
はるか昔の映画に鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」がある。大楠道代が「腐りかけがおいしいの」と水蜜桃をなめるシーンにぎょっとした。もちろん性的な隠喩。ただ僕の腹フェチはこういう深遠な官能性の上に立脚するものではなくって、無邪気なハラそれ自体、とでも呼ぶべきものにつながっているようだ。
映画の中にストリープ自身がおなかを見せるシーンはなかったと思うが、ドレスをまとっても、どっしりした腰まわりは無防備で邪気がなく、僕はイーストウッドがなぜ彼女に魅かれたか納得した。
僕のリサーチによると、どうもたいていの男がペタンとしたおなかを好むようなのだけど、僕って変?しかしながら、テイストの間口が広いことだけは確かだぜ。
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4/28/2010
マディソン郡の橋②
前回「母」と「父」のイメージについて、ちょっとした実験をして「母」のタブーについて書いた。気になるのは、女性の場合は「父」像のタブーの方が強いかもしれないことだが、これは僕は男だから測り知ることもできない。
男は多かれ少なかれマザコンである、とはよく言われることだ。つき合っている女性が本気で怒ったときなど、本当に怖い。体が縮み上がるほど、コワイ。こんなときなど、きっと母なる女性から生まれてきたせいだとつくづく後悔する。関係ないか?
まあともかく。僕は最近までマザコン度はかなり低いほうだと自負してきた。世の男性には、自分の母とよく似たタイプの女性を選ぶ輩がいるという話など鼻で笑っていた。現にこれまでの恋人に、母に似たタイプなど一人もいない。僕の顔が母のそれによく似ているという事実も関係しているかもしれない。あえて自分と似た女性とつき合う必要などないからだ。ところがあるときフッと思ったのだ。ひょっとすると僕が選んできたのは、幼いころに思い描いていた「理想の母親」像のイメージに近い女性たちではなかったか。
授業参観のときなど、教室の後ろに立つ母は、友達の母たちと比べてなんとなくアカ抜けて見えて、背中がむずがゆいと同時に晴れがましい気持ちになったものだ。おまけに守られている感覚もあって、おお、あのときの母のイメージを勝手に女性たちに投影してきただけなのかもしれないぞ。そうなるともう観念するしかない。結局僕は「母」から逃げられない。
僕の母は、実際にはむしろ厳しくまた我も強く、しかしその分、辛抱強い人でもある。それは僕も含めて弟妹とも充分承知していて、まあそんなこんながいろいろトラブルを引き起こしたりもする。母を痛めつけてきたと自覚しているからだろう、「マディソン郡の橋」を見ながら原罪意識のようなものが僕の中になだれ込んできて、僕は涙を禁じえなかったよ。しかし父の影というのは薄いなあ。すまん。
主演のメリル・ストリープはやっぱり大女優だ。彼女の「恋に落ちて」も好きな映画だった。というよりも、彼女のことが好きだった。「フランス軍中尉の女」や「ソフィーの選択」なども良かったが、それから以降は今ひとつ。上手過ぎて見なくても判ったような気になっていたからだ。でも「マディソン郡」で、彼女はまた見事なヒロイン像を造形したと思う。そして主演・監督のイーストウッド。きっとこの人は自分の「内なる女性」と上手にコンタクトが取れる、心優しい男なのであろう。
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男は多かれ少なかれマザコンである、とはよく言われることだ。つき合っている女性が本気で怒ったときなど、本当に怖い。体が縮み上がるほど、コワイ。こんなときなど、きっと母なる女性から生まれてきたせいだとつくづく後悔する。関係ないか?
まあともかく。僕は最近までマザコン度はかなり低いほうだと自負してきた。世の男性には、自分の母とよく似たタイプの女性を選ぶ輩がいるという話など鼻で笑っていた。現にこれまでの恋人に、母に似たタイプなど一人もいない。僕の顔が母のそれによく似ているという事実も関係しているかもしれない。あえて自分と似た女性とつき合う必要などないからだ。ところがあるときフッと思ったのだ。ひょっとすると僕が選んできたのは、幼いころに思い描いていた「理想の母親」像のイメージに近い女性たちではなかったか。
授業参観のときなど、教室の後ろに立つ母は、友達の母たちと比べてなんとなくアカ抜けて見えて、背中がむずがゆいと同時に晴れがましい気持ちになったものだ。おまけに守られている感覚もあって、おお、あのときの母のイメージを勝手に女性たちに投影してきただけなのかもしれないぞ。そうなるともう観念するしかない。結局僕は「母」から逃げられない。
僕の母は、実際にはむしろ厳しくまた我も強く、しかしその分、辛抱強い人でもある。それは僕も含めて弟妹とも充分承知していて、まあそんなこんながいろいろトラブルを引き起こしたりもする。母を痛めつけてきたと自覚しているからだろう、「マディソン郡の橋」を見ながら原罪意識のようなものが僕の中になだれ込んできて、僕は涙を禁じえなかったよ。しかし父の影というのは薄いなあ。すまん。
主演のメリル・ストリープはやっぱり大女優だ。彼女の「恋に落ちて」も好きな映画だった。というよりも、彼女のことが好きだった。「フランス軍中尉の女」や「ソフィーの選択」なども良かったが、それから以降は今ひとつ。上手過ぎて見なくても判ったような気になっていたからだ。でも「マディソン郡」で、彼女はまた見事なヒロイン像を造形したと思う。そして主演・監督のイーストウッド。きっとこの人は自分の「内なる女性」と上手にコンタクトが取れる、心優しい男なのであろう。
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4/15/2010
マディソン郡の橋①
年末・年始。普段はつまらなく思う英国のTVだが、この時期になるとなかなか良い映画をやっていて、番組欄を眺めるだけでも楽しい。昨年の年始は深夜に「エマニエル夫人」を流していて、おお遂に無修正版を拝めた、と大いに感動したものだけど、大晦日に見た「マディソン郡の橋」はこれまた良い映画だった。
話は変わるが、この欄では主にヨーロッパ中心に恋愛のネタを探そうと努めてきたのだけど、今回は完全にアメリカの話である。この映画、主演はクリント・イーストウッドとメリル・ストリープ。監督もイーストウッド自身で、処女作「恐怖のメロディ」以来、監督としても随分高く評価される人だ。作風が非ハリウッド的というかヨーロッパ的というか。そんな弁解とともにこの映画を採り上げました。
映画があんまり良かったので原作を読んでみたら、こちらはそうでもなかった。映画も公開当時、イーストウッド(1930年生)とストリープ(1949年生)の実年齢と設定のギャップが言われ、確かにシャワーを浴びるイーストウッドは見るのがつらかった。しかしそんな小さな欠点には目をつぶろう。映画は、母から娘と息子にあてた手紙を二人が読み進むという展開に変えることで、原作の持つ味わいをはるかに深いものとすることに成功しているからだ。
母は自分の死後発見されることになるであろう手紙の中で、たった四日間だけの過去の恋愛を語り、娘・息子はそれを読むことで母の「不倫」を知り、当惑・混乱しながらも最後にはその事実を受け容れ、壊れかかっていた彼ら自身のパートナーとの絆の大切さに、再び思いを向ける。母の死を通じて、パートナーを想う心が、娘・息子の中に再生したわけだ。同時に、自分の愛を犠牲にした母の家族愛に改めて子供たちが包まれるという「死と再生」の話は、やっぱり泣けるのであった。
母というのは不思議な存在で、母の性的なイメージは通常、意識の中で徹底的にガードされている。ひとつ実験をしてみよう。ご自身のご両親を思い浮かべてみてください。
「聖なる父」という言葉は、あるいはイメージは受け容れやすい。「聖なる母」も大丈夫。「淫蕩な父」はどうだろう?僕は男だからかもしれないが、OK。しかし「淫乱な母」はダメ。意識がイメージを閉ざしてしまう。さらにAV男優の顔を父に置き換えてみる作業は、僕にはできるが、AV女優と母となると、途端につらくなる。かくも「母」というのは強烈なタブーらしい。
映画でも、娘は比較的冷静に母の告白を読むのだが、息子の方は酒の力を借りようとする。図式的だが、映画的な描写としてうまい。
まだ書き足りないので、続きは次回。
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話は変わるが、この欄では主にヨーロッパ中心に恋愛のネタを探そうと努めてきたのだけど、今回は完全にアメリカの話である。この映画、主演はクリント・イーストウッドとメリル・ストリープ。監督もイーストウッド自身で、処女作「恐怖のメロディ」以来、監督としても随分高く評価される人だ。作風が非ハリウッド的というかヨーロッパ的というか。そんな弁解とともにこの映画を採り上げました。
映画があんまり良かったので原作を読んでみたら、こちらはそうでもなかった。映画も公開当時、イーストウッド(1930年生)とストリープ(1949年生)の実年齢と設定のギャップが言われ、確かにシャワーを浴びるイーストウッドは見るのがつらかった。しかしそんな小さな欠点には目をつぶろう。映画は、母から娘と息子にあてた手紙を二人が読み進むという展開に変えることで、原作の持つ味わいをはるかに深いものとすることに成功しているからだ。
母は自分の死後発見されることになるであろう手紙の中で、たった四日間だけの過去の恋愛を語り、娘・息子はそれを読むことで母の「不倫」を知り、当惑・混乱しながらも最後にはその事実を受け容れ、壊れかかっていた彼ら自身のパートナーとの絆の大切さに、再び思いを向ける。母の死を通じて、パートナーを想う心が、娘・息子の中に再生したわけだ。同時に、自分の愛を犠牲にした母の家族愛に改めて子供たちが包まれるという「死と再生」の話は、やっぱり泣けるのであった。
母というのは不思議な存在で、母の性的なイメージは通常、意識の中で徹底的にガードされている。ひとつ実験をしてみよう。ご自身のご両親を思い浮かべてみてください。
「聖なる父」という言葉は、あるいはイメージは受け容れやすい。「聖なる母」も大丈夫。「淫蕩な父」はどうだろう?僕は男だからかもしれないが、OK。しかし「淫乱な母」はダメ。意識がイメージを閉ざしてしまう。さらにAV男優の顔を父に置き換えてみる作業は、僕にはできるが、AV女優と母となると、途端につらくなる。かくも「母」というのは強烈なタブーらしい。
映画でも、娘は比較的冷静に母の告白を読むのだが、息子の方は酒の力を借りようとする。図式的だが、映画的な描写としてうまい。
まだ書き足りないので、続きは次回。
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2/25/2010
ピアノ・レッスン③
ジェーン・カンピオン監督の「ピアノ・レッスン」はエロティシズムに溢れた作品だ。前回それについて①異文化との遭遇 ②「待つ」こと を採り上げた。今回はその続き。
③緊縛と解放
そもそもピアノという楽器は、ある種の緊縛を強いる存在だ。こいつはご存知のように、非常に重い。たとえば家出を繰り返すギター少年というのはいくらでもいそうだが、それがピアノ少年とあまり想像できないではないか。ひとえに重くて運べないからだ。つまり彼にとってピアノとは、弾くことによって魂を飛翔させる「解放」であるとともに、家出を妨げる「呪縛」なのだ。また、陶酔している女流ピアニストの
演奏風景は、僕にいつも性行為を連想させる。顔の表情だけではなく、ピアノという大きな存在から逃れる自由を奪われている光景が、なおさらそういった連想を強調する。
映画の構造は複雑で、冒頭、小船に縛り付けられ海を渡るピアノが描かれる。声を失った主人公エイダの代弁者であるピアノは、重いという理由で海辺に置き去りにされるのだが、やがて隣人ベインズに「人質」に取られ、エイダは彼の欲望の満足と引き換えにピアノを弾くことを許される。
ところがベインズの登場は、それまでエイダとピアノの間でだけ交歓されていたエロスの輪を壊し、彼女は恐らく初めて他者とのコミュニケーションを伴う豊かな世界を知る。しかし彼女はまだ「結婚」という制度に縛られたままである。
二人の情交を知った夫に斧で指を切断されたエイダは、ベインズとかの地を離れる決意をする。ところが再び小船に縛り付けられたピアノを見て、彼女はそれを海に捨てさせようとするのだ。
ピアノが実は呪縛であったと悟ったうえでの行為だと思うのだが、エイダもピアノを縛っていたロープに足を巻かれ、海中へと没してしまう。意識的にか無意識的にか、はたまた単なるハプニングか。映画はそのあたりをあいまいなままにし、答えを与えていない。指を失うことで、ピアノと愛のない結婚という緊縛から解放されたエイダの心理とはかくなるものか、と監督の女性の視点のようなものを僕は強く感じた。
エイダは結局、自力で海中から脱することに成功する。
映画の最後で描かれる情景は、新天地での二人の幸福な生活を示唆するものだ。彼らの愛が、それまでのジャングルの中での狂気に近いものから、穏やかな愛にまで成熟したと言うべきか。しかし彼女は、まだ海の底に沈んだピアノや、その上に浮かぶ自分自身のことを考えると告白する。業の深いことよ。
団鬼六作品やスタントンのイラストの例を持ち出すまでもなく、心理的あるいは肉体的緊縛がときに官能を高めるのは事実だ。緊縛により、歌がさらに美しくなるということもある。手かせ足かせだらけの僕から出るのは、悲鳴ばかりだけどね。
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③緊縛と解放
そもそもピアノという楽器は、ある種の緊縛を強いる存在だ。こいつはご存知のように、非常に重い。たとえば家出を繰り返すギター少年というのはいくらでもいそうだが、それがピアノ少年とあまり想像できないではないか。ひとえに重くて運べないからだ。つまり彼にとってピアノとは、弾くことによって魂を飛翔させる「解放」であるとともに、家出を妨げる「呪縛」なのだ。また、陶酔している女流ピアニストの
演奏風景は、僕にいつも性行為を連想させる。顔の表情だけではなく、ピアノという大きな存在から逃れる自由を奪われている光景が、なおさらそういった連想を強調する。
映画の構造は複雑で、冒頭、小船に縛り付けられ海を渡るピアノが描かれる。声を失った主人公エイダの代弁者であるピアノは、重いという理由で海辺に置き去りにされるのだが、やがて隣人ベインズに「人質」に取られ、エイダは彼の欲望の満足と引き換えにピアノを弾くことを許される。
ところがベインズの登場は、それまでエイダとピアノの間でだけ交歓されていたエロスの輪を壊し、彼女は恐らく初めて他者とのコミュニケーションを伴う豊かな世界を知る。しかし彼女はまだ「結婚」という制度に縛られたままである。
二人の情交を知った夫に斧で指を切断されたエイダは、ベインズとかの地を離れる決意をする。ところが再び小船に縛り付けられたピアノを見て、彼女はそれを海に捨てさせようとするのだ。
ピアノが実は呪縛であったと悟ったうえでの行為だと思うのだが、エイダもピアノを縛っていたロープに足を巻かれ、海中へと没してしまう。意識的にか無意識的にか、はたまた単なるハプニングか。映画はそのあたりをあいまいなままにし、答えを与えていない。指を失うことで、ピアノと愛のない結婚という緊縛から解放されたエイダの心理とはかくなるものか、と監督の女性の視点のようなものを僕は強く感じた。
エイダは結局、自力で海中から脱することに成功する。
映画の最後で描かれる情景は、新天地での二人の幸福な生活を示唆するものだ。彼らの愛が、それまでのジャングルの中での狂気に近いものから、穏やかな愛にまで成熟したと言うべきか。しかし彼女は、まだ海の底に沈んだピアノや、その上に浮かぶ自分自身のことを考えると告白する。業の深いことよ。
団鬼六作品やスタントンのイラストの例を持ち出すまでもなく、心理的あるいは肉体的緊縛がときに官能を高めるのは事実だ。緊縛により、歌がさらに美しくなるということもある。手かせ足かせだらけの僕から出るのは、悲鳴ばかりだけどね。
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2/11/2010
ピアノ・レッスン②
「ピアノ・レッスン」は必ずしも恋愛を描いた映画ではない。「恋愛」とは少なくとも、ある程度文化的に洗練され様式化された、人間活動のひとつである。しかしここに描かれているのは、いわば「恋愛以前」とでも呼ぶべきような情念の噴出であり、そういう点でヒロインのエイダを19世紀スコットランド出身、相手のベインズを白人移民と現地人との混血、夫のスチュアートを移民の子孫というように設定したのは正解だったように思う。なぜなら彼らがまだ啓蒙以前、「野蛮」に近いところにいることが容易に想像されるからだ。全体的な味わいとしては、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」に似ていると感じたのは僕だけだろうか。
そういった恋愛の「原風景」を描いているだけに、映画はさまざまな形のエロティシズムを内包している。誘惑、禁止、のぞき、肉体破損に独占、嫉妬、エトセトラ。今回はそれ以外に読み取れる要素を採り上げたい。
①異文化との遭遇
異文化そのものが強烈なエロティシズムを発散している。たとえば、かつて日本では外国人モデル・タレントの天国だった時代があった。遠い異文化に属する彼らは、日本人にとってきわめてエロチックな存在だった。白人(特に男性)の中にあるといわれる黒人に対する潜在恐怖も、これが形を変えたものだろう。ゴーギャンの憧れたタヒチの女性然り、いまだパワー衰えぬ「ゲイシャ」然り。エロティシズム=エキゾチズムの前では、美醜のパースペクティヴも無力化するのか、大きな勘違いとしか思えぬ異文化カップルもここロンドンではよく見かけるが、これはご愛嬌。
とは言え、たまたま遭遇したこの両者の間に、コミュニケーションの術がまったく無ければ話は別だ。誰も猿にエロティシズムを感じることはないはずだ。例外はあると思うが。ともかくベインズを白人と現地人との混血としたのはわかりやすい設定だった。顔の入墨もなかなかグッドである。
そもそも、たいていの社会が「男女」という異文化=差異を、その内部に長年にわたり保持してきたのも、エロティシズムという餌を絶やさぬようにして、子孫繁栄を願う人類の隠れた知恵かもしれない。
②「待つ」こと
夫はエイダに触れることを許されず、彼女の感情がほぐれるのをひたすら待つ。ベインズは、小屋でエイダが来るのを待つ。一方彼女もベインズの小屋に行くまではピアノを弾くことができず、悶々として暮らす。待つことの苦しみから一人自由なのは、まだ成熟していないエイダの娘だけだ。だから彼女は天使の羽を着けている。
「待つ」こと自体にエロティシズムが潜んでいることは、以前にもブルトン(だったと思う)の言葉を引いて挙げた。待つ行為に何か欲望を高めるメカニズムがあるのだろう。裸体になる相手を初めて見る瞬間の至福よ!全く人は「待つ」ために衣服を発明したのではないか。脱いでしまったあとは、なあんだ、なんてね。次回は「ピアノ・レッスン」における「緊縛と解放」。
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そういった恋愛の「原風景」を描いているだけに、映画はさまざまな形のエロティシズムを内包している。誘惑、禁止、のぞき、肉体破損に独占、嫉妬、エトセトラ。今回はそれ以外に読み取れる要素を採り上げたい。
①異文化との遭遇
異文化そのものが強烈なエロティシズムを発散している。たとえば、かつて日本では外国人モデル・タレントの天国だった時代があった。遠い異文化に属する彼らは、日本人にとってきわめてエロチックな存在だった。白人(特に男性)の中にあるといわれる黒人に対する潜在恐怖も、これが形を変えたものだろう。ゴーギャンの憧れたタヒチの女性然り、いまだパワー衰えぬ「ゲイシャ」然り。エロティシズム=エキゾチズムの前では、美醜のパースペクティヴも無力化するのか、大きな勘違いとしか思えぬ異文化カップルもここロンドンではよく見かけるが、これはご愛嬌。
とは言え、たまたま遭遇したこの両者の間に、コミュニケーションの術がまったく無ければ話は別だ。誰も猿にエロティシズムを感じることはないはずだ。例外はあると思うが。ともかくベインズを白人と現地人との混血としたのはわかりやすい設定だった。顔の入墨もなかなかグッドである。
そもそも、たいていの社会が「男女」という異文化=差異を、その内部に長年にわたり保持してきたのも、エロティシズムという餌を絶やさぬようにして、子孫繁栄を願う人類の隠れた知恵かもしれない。
②「待つ」こと
夫はエイダに触れることを許されず、彼女の感情がほぐれるのをひたすら待つ。ベインズは、小屋でエイダが来るのを待つ。一方彼女もベインズの小屋に行くまではピアノを弾くことができず、悶々として暮らす。待つことの苦しみから一人自由なのは、まだ成熟していないエイダの娘だけだ。だから彼女は天使の羽を着けている。
「待つ」こと自体にエロティシズムが潜んでいることは、以前にもブルトン(だったと思う)の言葉を引いて挙げた。待つ行為に何か欲望を高めるメカニズムがあるのだろう。裸体になる相手を初めて見る瞬間の至福よ!全く人は「待つ」ために衣服を発明したのではないか。脱いでしまったあとは、なあんだ、なんてね。次回は「ピアノ・レッスン」における「緊縛と解放」。
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1/21/2010
ピアノ・レッスン①
指は便利なものである。こんなこともできるし、あんなこともできる。そんなことまでしていいのか、ということだって、ちゃんとできる。
という理由からか、男性のセクシー・ポイントに指を挙げる女性がなかなか多いようだ。板前さんなどとてももてるようだし、ヘアドレッサーも然り。僕なんかも少しばかりピアノを弾くのだけども、何度か指がセクシーだと言われたことがある。僕の手はどちらかといえば無骨な形だから、よくよく褒めるところがないのだろうとも思うが、そう言われて悪い気はしない。これがピアノのおかげならば、ピアノ様さまであろうか。
とはいえ、物心ついた頃から親の見栄半分でピアノを習わされたが、ピアノのレッスン、必ずしも好きではなかった。まず鍵盤が重い。また、動き回りながら弾くことができず窮屈だ。形状もバイオリンやギターなどが優美な流線型をしているのに対し、いかにも頑固そうである。
実際、ピアノという楽器は西洋音楽の権化のような存在で、ハーモニーの構造を理解しようと思えばピアノが一番便利だろう。記譜法自体、鍵盤楽器の発達とともに進化したのではなかろうか。いわば理性のカタマリのような、男っぽい楽器とも言える。
そんなふうに思うからだろうか、男性ピアニストはガンガン弾くタイプが好きで、バルトーク弾きなんかはそれだけで尊敬してしまう。逆にピアノの前で陶酔する女性ピアニストの姿は、この上なく艶っぽい。
ジェーン・カンピオン監督の「ピアノ・レッスン」(原題「ザ・ピアノ」)は、ピアノを小道具に使い、凝った設定で官能を追究した名品である。
この映画で初めて知ったのだが、ヨーロッパにも百年ほど前は「写真見合い」があったようで、ホリー・ハンター演じるエイダは結婚のため、娘とともにスコットランドからはるばるニュージーランドへとやって来た。夫となるのは現地でプランテーションを営むスチュワートである。
彼女は生家からピアノを運ばせてきたのだが、重すぎてジャングルを移動できないということで、夫は浜辺にピアノを放置する。それを自分の土地と交換で引き取り、エイダにある提案をするのが、現地人と入植者との混血、ハーヴェイ・カイテル演じるベインズだ。
エイダ役のホリー・ハンターはまさしくはまり役で、恐ろしいほど魅力的だが、そもそもこの役を得たのもピアノを実際に弾くことができたからだそうだ。劇中で彼女が実際に弾くマイケル・ナイマン作曲の旋律は、十九世紀スコットランドの荒ぶる魂はかくもあろうかというような野趣と美しさに満ちている。
「ピアノ・レッスン」の魅力を語るには紙面が足りない。エロティシズムの宝庫のような映画だからだ。続きは次回。
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という理由からか、男性のセクシー・ポイントに指を挙げる女性がなかなか多いようだ。板前さんなどとてももてるようだし、ヘアドレッサーも然り。僕なんかも少しばかりピアノを弾くのだけども、何度か指がセクシーだと言われたことがある。僕の手はどちらかといえば無骨な形だから、よくよく褒めるところがないのだろうとも思うが、そう言われて悪い気はしない。これがピアノのおかげならば、ピアノ様さまであろうか。
とはいえ、物心ついた頃から親の見栄半分でピアノを習わされたが、ピアノのレッスン、必ずしも好きではなかった。まず鍵盤が重い。また、動き回りながら弾くことができず窮屈だ。形状もバイオリンやギターなどが優美な流線型をしているのに対し、いかにも頑固そうである。
実際、ピアノという楽器は西洋音楽の権化のような存在で、ハーモニーの構造を理解しようと思えばピアノが一番便利だろう。記譜法自体、鍵盤楽器の発達とともに進化したのではなかろうか。いわば理性のカタマリのような、男っぽい楽器とも言える。
そんなふうに思うからだろうか、男性ピアニストはガンガン弾くタイプが好きで、バルトーク弾きなんかはそれだけで尊敬してしまう。逆にピアノの前で陶酔する女性ピアニストの姿は、この上なく艶っぽい。
ジェーン・カンピオン監督の「ピアノ・レッスン」(原題「ザ・ピアノ」)は、ピアノを小道具に使い、凝った設定で官能を追究した名品である。
この映画で初めて知ったのだが、ヨーロッパにも百年ほど前は「写真見合い」があったようで、ホリー・ハンター演じるエイダは結婚のため、娘とともにスコットランドからはるばるニュージーランドへとやって来た。夫となるのは現地でプランテーションを営むスチュワートである。
彼女は生家からピアノを運ばせてきたのだが、重すぎてジャングルを移動できないということで、夫は浜辺にピアノを放置する。それを自分の土地と交換で引き取り、エイダにある提案をするのが、現地人と入植者との混血、ハーヴェイ・カイテル演じるベインズだ。
エイダ役のホリー・ハンターはまさしくはまり役で、恐ろしいほど魅力的だが、そもそもこの役を得たのもピアノを実際に弾くことができたからだそうだ。劇中で彼女が実際に弾くマイケル・ナイマン作曲の旋律は、十九世紀スコットランドの荒ぶる魂はかくもあろうかというような野趣と美しさに満ちている。
「ピアノ・レッスン」の魅力を語るには紙面が足りない。エロティシズムの宝庫のような映画だからだ。続きは次回。
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12/09/2009
日の名残り②
念のため、映画も見た。カズオ・イシグロ原作の「日の名残り」である。主演はアンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソン。監督はジェームズ・アイヴォリー。
前回、原作を採り上げて、主人公スティーブンスをカチカチの堅物で女中頭ミス・ケントンに対する恋心をほぼ完璧に抑圧しきった人物と断定したのだが、映画ではどのように描いているか見てみたくなったのだ。
ところでアンソニー・ホプキンスというヒトだが、「羊たちの沈黙」のレクター・ハンニバルの人物造型が強烈過ぎて、僕など、どの映画を見ても殺人鬼レクターに見えてしまう。異様な存在感があって、しかし何を考えているのか良く分からないといったキャラクターは、主人公スティーブンスという人間に原作からはあまり感じられなかった「凄み」と「神秘性」を与えることになったが、淡々と流れてゆくこの映画にとっては、見世物ができたわけで、むしろ正解だったと思う。
また原作は全編スティーブンスの一人称で語られるため、彼の意識の裏にある本当の心の動きは、彼の記憶の中のミス・ケントンたちの言動を通して読み取るしかないのだが、映画は第三者の視点(カメラ)で言葉と裏腹なスティーブンスの表情・挙動が見られるため、非常に分かりやすくなった。もちろんその分だけ、原作の持つ味わいが薄くなったことは否めないけれど。
一方エマ・トンプソン。僕は必ずしもこの女優さんが得意ではなくて、何というのかなあ、知が勝りすぎ(に見える)とでもいうべきか、でも上手いことには間違いがない。執事長と女中頭としてかつて同じ屋敷に勤め、結局恋が成就することもなく別れた二人は二十年後に再会するのだが、想いを殺してその後に自分の人生を築いたもう若くはない女性を、トンプソンは実に情感豊かに演じていた。
映画はスティーブンスの目の届かないところにいるミス・ケントンの描写も自由で、待つ女性の悲しさをストレートに表現していた。だから再会した彼女が、必ずしも幸福でなかった結婚生活を語る姿が胸を打つ。
原作にはこんなセリフがある。「夫を愛せるほどに私は成長したんです」。
しかし何ですね。ヒトの夫になんかなるもんじゃない。世の「妻」と呼ばれるほとんどすべての女性が、昔の彼氏に会って同じセリフをのたまいそうではないですか。僕の被害妄想か?男ってのは結構純情で、ちなみにミス・ケントンは結婚後、子を儲もうけ、孫まで生まれようとしている一方、スティーブンスは生涯独身。可哀想なのである。そう考えると、実は待ち続けたのはスティーブンスの方ではないか?映画を見ながらそんなことに気づいたのだった。
今、思い出した。十五年も昔、大阪梅田の紀伊国屋の前でカナコ嬢のことを三時間も待った揚げ句すっぽかされた。まったく下心というのは情けないものである。のちに彼女が整形美人と人づてに聞いて、この一件、損したのか得したのか。
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前回、原作を採り上げて、主人公スティーブンスをカチカチの堅物で女中頭ミス・ケントンに対する恋心をほぼ完璧に抑圧しきった人物と断定したのだが、映画ではどのように描いているか見てみたくなったのだ。
ところでアンソニー・ホプキンスというヒトだが、「羊たちの沈黙」のレクター・ハンニバルの人物造型が強烈過ぎて、僕など、どの映画を見ても殺人鬼レクターに見えてしまう。異様な存在感があって、しかし何を考えているのか良く分からないといったキャラクターは、主人公スティーブンスという人間に原作からはあまり感じられなかった「凄み」と「神秘性」を与えることになったが、淡々と流れてゆくこの映画にとっては、見世物ができたわけで、むしろ正解だったと思う。
また原作は全編スティーブンスの一人称で語られるため、彼の意識の裏にある本当の心の動きは、彼の記憶の中のミス・ケントンたちの言動を通して読み取るしかないのだが、映画は第三者の視点(カメラ)で言葉と裏腹なスティーブンスの表情・挙動が見られるため、非常に分かりやすくなった。もちろんその分だけ、原作の持つ味わいが薄くなったことは否めないけれど。
一方エマ・トンプソン。僕は必ずしもこの女優さんが得意ではなくて、何というのかなあ、知が勝りすぎ(に見える)とでもいうべきか、でも上手いことには間違いがない。執事長と女中頭としてかつて同じ屋敷に勤め、結局恋が成就することもなく別れた二人は二十年後に再会するのだが、想いを殺してその後に自分の人生を築いたもう若くはない女性を、トンプソンは実に情感豊かに演じていた。
映画はスティーブンスの目の届かないところにいるミス・ケントンの描写も自由で、待つ女性の悲しさをストレートに表現していた。だから再会した彼女が、必ずしも幸福でなかった結婚生活を語る姿が胸を打つ。
原作にはこんなセリフがある。「夫を愛せるほどに私は成長したんです」。
しかし何ですね。ヒトの夫になんかなるもんじゃない。世の「妻」と呼ばれるほとんどすべての女性が、昔の彼氏に会って同じセリフをのたまいそうではないですか。僕の被害妄想か?男ってのは結構純情で、ちなみにミス・ケントンは結婚後、子を儲もうけ、孫まで生まれようとしている一方、スティーブンスは生涯独身。可哀想なのである。そう考えると、実は待ち続けたのはスティーブンスの方ではないか?映画を見ながらそんなことに気づいたのだった。
今、思い出した。十五年も昔、大阪梅田の紀伊国屋の前でカナコ嬢のことを三時間も待った揚げ句すっぽかされた。まったく下心というのは情けないものである。のちに彼女が整形美人と人づてに聞いて、この一件、損したのか得したのか。
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