前回「母」と「父」のイメージについて、ちょっとした実験をして「母」のタブーについて書いた。気になるのは、女性の場合は「父」像のタブーの方が強いかもしれないことだが、これは僕は男だから測り知ることもできない。
男は多かれ少なかれマザコンである、とはよく言われることだ。つき合っている女性が本気で怒ったときなど、本当に怖い。体が縮み上がるほど、コワイ。こんなときなど、きっと母なる女性から生まれてきたせいだとつくづく後悔する。関係ないか?
まあともかく。僕は最近までマザコン度はかなり低いほうだと自負してきた。世の男性には、自分の母とよく似たタイプの女性を選ぶ輩がいるという話など鼻で笑っていた。現にこれまでの恋人に、母に似たタイプなど一人もいない。僕の顔が母のそれによく似ているという事実も関係しているかもしれない。あえて自分と似た女性とつき合う必要などないからだ。ところがあるときフッと思ったのだ。ひょっとすると僕が選んできたのは、幼いころに思い描いていた「理想の母親」像のイメージに近い女性たちではなかったか。
授業参観のときなど、教室の後ろに立つ母は、友達の母たちと比べてなんとなくアカ抜けて見えて、背中がむずがゆいと同時に晴れがましい気持ちになったものだ。おまけに守られている感覚もあって、おお、あのときの母のイメージを勝手に女性たちに投影してきただけなのかもしれないぞ。そうなるともう観念するしかない。結局僕は「母」から逃げられない。
僕の母は、実際にはむしろ厳しくまた我も強く、しかしその分、辛抱強い人でもある。それは僕も含めて弟妹とも充分承知していて、まあそんなこんながいろいろトラブルを引き起こしたりもする。母を痛めつけてきたと自覚しているからだろう、「マディソン郡の橋」を見ながら原罪意識のようなものが僕の中になだれ込んできて、僕は涙を禁じえなかったよ。しかし父の影というのは薄いなあ。すまん。
主演のメリル・ストリープはやっぱり大女優だ。彼女の「恋に落ちて」も好きな映画だった。というよりも、彼女のことが好きだった。「フランス軍中尉の女」や「ソフィーの選択」なども良かったが、それから以降は今ひとつ。上手過ぎて見なくても判ったような気になっていたからだ。でも「マディソン郡」で、彼女はまた見事なヒロイン像を造形したと思う。そして主演・監督のイーストウッド。きっとこの人は自分の「内なる女性」と上手にコンタクトが取れる、心優しい男なのであろう。
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4/15/2010
マディソン郡の橋①
年末・年始。普段はつまらなく思う英国のTVだが、この時期になるとなかなか良い映画をやっていて、番組欄を眺めるだけでも楽しい。昨年の年始は深夜に「エマニエル夫人」を流していて、おお遂に無修正版を拝めた、と大いに感動したものだけど、大晦日に見た「マディソン郡の橋」はこれまた良い映画だった。
話は変わるが、この欄では主にヨーロッパ中心に恋愛のネタを探そうと努めてきたのだけど、今回は完全にアメリカの話である。この映画、主演はクリント・イーストウッドとメリル・ストリープ。監督もイーストウッド自身で、処女作「恐怖のメロディ」以来、監督としても随分高く評価される人だ。作風が非ハリウッド的というかヨーロッパ的というか。そんな弁解とともにこの映画を採り上げました。
映画があんまり良かったので原作を読んでみたら、こちらはそうでもなかった。映画も公開当時、イーストウッド(1930年生)とストリープ(1949年生)の実年齢と設定のギャップが言われ、確かにシャワーを浴びるイーストウッドは見るのがつらかった。しかしそんな小さな欠点には目をつぶろう。映画は、母から娘と息子にあてた手紙を二人が読み進むという展開に変えることで、原作の持つ味わいをはるかに深いものとすることに成功しているからだ。
母は自分の死後発見されることになるであろう手紙の中で、たった四日間だけの過去の恋愛を語り、娘・息子はそれを読むことで母の「不倫」を知り、当惑・混乱しながらも最後にはその事実を受け容れ、壊れかかっていた彼ら自身のパートナーとの絆の大切さに、再び思いを向ける。母の死を通じて、パートナーを想う心が、娘・息子の中に再生したわけだ。同時に、自分の愛を犠牲にした母の家族愛に改めて子供たちが包まれるという「死と再生」の話は、やっぱり泣けるのであった。
母というのは不思議な存在で、母の性的なイメージは通常、意識の中で徹底的にガードされている。ひとつ実験をしてみよう。ご自身のご両親を思い浮かべてみてください。
「聖なる父」という言葉は、あるいはイメージは受け容れやすい。「聖なる母」も大丈夫。「淫蕩な父」はどうだろう?僕は男だからかもしれないが、OK。しかし「淫乱な母」はダメ。意識がイメージを閉ざしてしまう。さらにAV男優の顔を父に置き換えてみる作業は、僕にはできるが、AV女優と母となると、途端につらくなる。かくも「母」というのは強烈なタブーらしい。
映画でも、娘は比較的冷静に母の告白を読むのだが、息子の方は酒の力を借りようとする。図式的だが、映画的な描写としてうまい。
まだ書き足りないので、続きは次回。
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話は変わるが、この欄では主にヨーロッパ中心に恋愛のネタを探そうと努めてきたのだけど、今回は完全にアメリカの話である。この映画、主演はクリント・イーストウッドとメリル・ストリープ。監督もイーストウッド自身で、処女作「恐怖のメロディ」以来、監督としても随分高く評価される人だ。作風が非ハリウッド的というかヨーロッパ的というか。そんな弁解とともにこの映画を採り上げました。
映画があんまり良かったので原作を読んでみたら、こちらはそうでもなかった。映画も公開当時、イーストウッド(1930年生)とストリープ(1949年生)の実年齢と設定のギャップが言われ、確かにシャワーを浴びるイーストウッドは見るのがつらかった。しかしそんな小さな欠点には目をつぶろう。映画は、母から娘と息子にあてた手紙を二人が読み進むという展開に変えることで、原作の持つ味わいをはるかに深いものとすることに成功しているからだ。
母は自分の死後発見されることになるであろう手紙の中で、たった四日間だけの過去の恋愛を語り、娘・息子はそれを読むことで母の「不倫」を知り、当惑・混乱しながらも最後にはその事実を受け容れ、壊れかかっていた彼ら自身のパートナーとの絆の大切さに、再び思いを向ける。母の死を通じて、パートナーを想う心が、娘・息子の中に再生したわけだ。同時に、自分の愛を犠牲にした母の家族愛に改めて子供たちが包まれるという「死と再生」の話は、やっぱり泣けるのであった。
母というのは不思議な存在で、母の性的なイメージは通常、意識の中で徹底的にガードされている。ひとつ実験をしてみよう。ご自身のご両親を思い浮かべてみてください。
「聖なる父」という言葉は、あるいはイメージは受け容れやすい。「聖なる母」も大丈夫。「淫蕩な父」はどうだろう?僕は男だからかもしれないが、OK。しかし「淫乱な母」はダメ。意識がイメージを閉ざしてしまう。さらにAV男優の顔を父に置き換えてみる作業は、僕にはできるが、AV女優と母となると、途端につらくなる。かくも「母」というのは強烈なタブーらしい。
映画でも、娘は比較的冷静に母の告白を読むのだが、息子の方は酒の力を借りようとする。図式的だが、映画的な描写としてうまい。
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