12/09/2009

日の名残り②

 念のため、映画も見た。カズオ・イシグロ原作の「日の名残り」である。主演はアンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソン。監督はジェームズ・アイヴォリー。
 前回、原作を採り上げて、主人公スティーブンスをカチカチの堅物で女中頭ミス・ケントンに対する恋心をほぼ完璧に抑圧しきった人物と断定したのだが、映画ではどのように描いているか見てみたくなったのだ。
 ところでアンソニー・ホプキンスというヒトだが、「羊たちの沈黙」のレクター・ハンニバルの人物造型が強烈過ぎて、僕など、どの映画を見ても殺人鬼レクターに見えてしまう。異様な存在感があって、しかし何を考えているのか良く分からないといったキャラクターは、主人公スティーブンスという人間に原作からはあまり感じられなかった「凄み」と「神秘性」を与えることになったが、淡々と流れてゆくこの映画にとっては、見世物ができたわけで、むしろ正解だったと思う。
 また原作は全編スティーブンスの一人称で語られるため、彼の意識の裏にある本当の心の動きは、彼の記憶の中のミス・ケントンたちの言動を通して読み取るしかないのだが、映画は第三者の視点(カメラ)で言葉と裏腹なスティーブンスの表情・挙動が見られるため、非常に分かりやすくなった。もちろんその分だけ、原作の持つ味わいが薄くなったことは否めないけれど。
 一方エマ・トンプソン。僕は必ずしもこの女優さんが得意ではなくて、何というのかなあ、知が勝りすぎ(に見える)とでもいうべきか、でも上手いことには間違いがない。執事長と女中頭としてかつて同じ屋敷に勤め、結局恋が成就することもなく別れた二人は二十年後に再会するのだが、想いを殺してその後に自分の人生を築いたもう若くはない女性を、トンプソンは実に情感豊かに演じていた。   
 映画はスティーブンスの目の届かないところにいるミス・ケントンの描写も自由で、待つ女性の悲しさをストレートに表現していた。だから再会した彼女が、必ずしも幸福でなかった結婚生活を語る姿が胸を打つ。
 原作にはこんなセリフがある。「夫を愛せるほどに私は成長したんです」。
 しかし何ですね。ヒトの夫になんかなるもんじゃない。世の「妻」と呼ばれるほとんどすべての女性が、昔の彼氏に会って同じセリフをのたまいそうではないですか。僕の被害妄想か?男ってのは結構純情で、ちなみにミス・ケントンは結婚後、子を儲もうけ、孫まで生まれようとしている一方、スティーブンスは生涯独身。可哀想なのである。そう考えると、実は待ち続けたのはスティーブンスの方ではないか?映画を見ながらそんなことに気づいたのだった。
 今、思い出した。十五年も昔、大阪梅田の紀伊国屋の前でカナコ嬢のことを三時間も待った揚げ句すっぽかされた。まったく下心というのは情けないものである。のちに彼女が整形美人と人づてに聞いて、この一件、損したのか得したのか。

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12/02/2009

日の名残り①

 待つのもつらいが、待たせるのはもっとつらい、というようなことを太宰治がどこかに書いていた記憶がある。本当だろうか。本人に「待たせている」という自覚が切実にあれば、この言葉も説得力があるが、待つ身の痛みを知る能力がなければ、言い訳の中でも最もタチの悪いものであろう。
 待っている瞬間が最もエロティックだと言ったのは、シュール・レアリズムの元締め、アンドレ・ブルトンだったか。一理ある。じらし、じらされは恋のかけ引きのひとつだし、トレンディ・ドラマの恋の当事者たちは自分の感情はもちろん、相手の気持ちをも十分に知っており、だからこそ「物語」になる。
 こういったセンスが皆無の、究極の朴念仁を描いたのが、カズオ・イシグロの「日の名残り」だ。
 第二次世界大戦前夜。名門ダーリントン卿に仕える執事長スティーブンスの一人称で語られる、英国の裏面史といった趣の作品。彼は「偉大な執事」像を追い求め粉骨砕身するのだが、ある日、女中頭ミス・ケントンが登場することで、微妙に心理的バランスを崩し始める。
 当初、ミス・ケントンは女性らしい細やかさで、スティーブンスの生活に潤いを与えようと心配りをするのだが、彼は職務の遂行を第一としてその親切のことごとくを拒絶してしまう。元来勝気なミス・ケントンは対立・和解を繰り返しながら、彼の求愛を待ち続けるのだが、自分の気持ちが決して受け入れられることがないのを悟り、必ずしも意に沿わぬ男性との結婚を決意して屋敷を去る。
 一見、何ということもないストーリーだが、「執事」という特殊な職業、強い忠誠心とおそらく女性恐怖から、恋心をほぼ完全に意識下に抑圧している主人公スティーブンスの複雑な性格、そして現代的だが身よりもなく孤独で、古い因習の中に生きざるを得ないミス・ケントンの人物設定などが巧みで、最後まで飽きさせない。
 貴族の使命感から、ナチス支援に身を砕いたダーリントン卿は戦後、没落、歴史から葬り去られる。スティーブンスの描く執事の理想像とは、ただ盲目的に主人に仕えることであって、決して主人をただすなどの出すぎたまねをしないというものだったので、ひたすら「偉大な執事」を求めた彼の人生もいわば徒労に終わるかに見える。悲劇的だが、それでも読後感がなぜかさわやかなのは、思いやりや許容能力に欠けた小人物スティーブンスの人生の人生を、作者が優しく見守っているからだろう。
 ところで。待ち続ける女というのは常に悲劇的だが、待ち続ける男というのは-。やっぱり喜劇的だろうね。

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