ジェーン・カンピオン監督の「ピアノ・レッスン」はエロティシズムに溢れた作品だ。前回それについて①異文化との遭遇 ②「待つ」こと を採り上げた。今回はその続き。
③緊縛と解放
そもそもピアノという楽器は、ある種の緊縛を強いる存在だ。こいつはご存知のように、非常に重い。たとえば家出を繰り返すギター少年というのはいくらでもいそうだが、それがピアノ少年とあまり想像できないではないか。ひとえに重くて運べないからだ。つまり彼にとってピアノとは、弾くことによって魂を飛翔させる「解放」であるとともに、家出を妨げる「呪縛」なのだ。また、陶酔している女流ピアニストの
演奏風景は、僕にいつも性行為を連想させる。顔の表情だけではなく、ピアノという大きな存在から逃れる自由を奪われている光景が、なおさらそういった連想を強調する。
映画の構造は複雑で、冒頭、小船に縛り付けられ海を渡るピアノが描かれる。声を失った主人公エイダの代弁者であるピアノは、重いという理由で海辺に置き去りにされるのだが、やがて隣人ベインズに「人質」に取られ、エイダは彼の欲望の満足と引き換えにピアノを弾くことを許される。
ところがベインズの登場は、それまでエイダとピアノの間でだけ交歓されていたエロスの輪を壊し、彼女は恐らく初めて他者とのコミュニケーションを伴う豊かな世界を知る。しかし彼女はまだ「結婚」という制度に縛られたままである。
二人の情交を知った夫に斧で指を切断されたエイダは、ベインズとかの地を離れる決意をする。ところが再び小船に縛り付けられたピアノを見て、彼女はそれを海に捨てさせようとするのだ。
ピアノが実は呪縛であったと悟ったうえでの行為だと思うのだが、エイダもピアノを縛っていたロープに足を巻かれ、海中へと没してしまう。意識的にか無意識的にか、はたまた単なるハプニングか。映画はそのあたりをあいまいなままにし、答えを与えていない。指を失うことで、ピアノと愛のない結婚という緊縛から解放されたエイダの心理とはかくなるものか、と監督の女性の視点のようなものを僕は強く感じた。
エイダは結局、自力で海中から脱することに成功する。
映画の最後で描かれる情景は、新天地での二人の幸福な生活を示唆するものだ。彼らの愛が、それまでのジャングルの中での狂気に近いものから、穏やかな愛にまで成熟したと言うべきか。しかし彼女は、まだ海の底に沈んだピアノや、その上に浮かぶ自分自身のことを考えると告白する。業の深いことよ。
団鬼六作品やスタントンのイラストの例を持ち出すまでもなく、心理的あるいは肉体的緊縛がときに官能を高めるのは事実だ。緊縛により、歌がさらに美しくなるということもある。手かせ足かせだらけの僕から出るのは、悲鳴ばかりだけどね。
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2/11/2010
ピアノ・レッスン②
「ピアノ・レッスン」は必ずしも恋愛を描いた映画ではない。「恋愛」とは少なくとも、ある程度文化的に洗練され様式化された、人間活動のひとつである。しかしここに描かれているのは、いわば「恋愛以前」とでも呼ぶべきような情念の噴出であり、そういう点でヒロインのエイダを19世紀スコットランド出身、相手のベインズを白人移民と現地人との混血、夫のスチュアートを移民の子孫というように設定したのは正解だったように思う。なぜなら彼らがまだ啓蒙以前、「野蛮」に近いところにいることが容易に想像されるからだ。全体的な味わいとしては、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」に似ていると感じたのは僕だけだろうか。
そういった恋愛の「原風景」を描いているだけに、映画はさまざまな形のエロティシズムを内包している。誘惑、禁止、のぞき、肉体破損に独占、嫉妬、エトセトラ。今回はそれ以外に読み取れる要素を採り上げたい。
①異文化との遭遇
異文化そのものが強烈なエロティシズムを発散している。たとえば、かつて日本では外国人モデル・タレントの天国だった時代があった。遠い異文化に属する彼らは、日本人にとってきわめてエロチックな存在だった。白人(特に男性)の中にあるといわれる黒人に対する潜在恐怖も、これが形を変えたものだろう。ゴーギャンの憧れたタヒチの女性然り、いまだパワー衰えぬ「ゲイシャ」然り。エロティシズム=エキゾチズムの前では、美醜のパースペクティヴも無力化するのか、大きな勘違いとしか思えぬ異文化カップルもここロンドンではよく見かけるが、これはご愛嬌。
とは言え、たまたま遭遇したこの両者の間に、コミュニケーションの術がまったく無ければ話は別だ。誰も猿にエロティシズムを感じることはないはずだ。例外はあると思うが。ともかくベインズを白人と現地人との混血としたのはわかりやすい設定だった。顔の入墨もなかなかグッドである。
そもそも、たいていの社会が「男女」という異文化=差異を、その内部に長年にわたり保持してきたのも、エロティシズムという餌を絶やさぬようにして、子孫繁栄を願う人類の隠れた知恵かもしれない。
②「待つ」こと
夫はエイダに触れることを許されず、彼女の感情がほぐれるのをひたすら待つ。ベインズは、小屋でエイダが来るのを待つ。一方彼女もベインズの小屋に行くまではピアノを弾くことができず、悶々として暮らす。待つことの苦しみから一人自由なのは、まだ成熟していないエイダの娘だけだ。だから彼女は天使の羽を着けている。
「待つ」こと自体にエロティシズムが潜んでいることは、以前にもブルトン(だったと思う)の言葉を引いて挙げた。待つ行為に何か欲望を高めるメカニズムがあるのだろう。裸体になる相手を初めて見る瞬間の至福よ!全く人は「待つ」ために衣服を発明したのではないか。脱いでしまったあとは、なあんだ、なんてね。次回は「ピアノ・レッスン」における「緊縛と解放」。
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そういった恋愛の「原風景」を描いているだけに、映画はさまざまな形のエロティシズムを内包している。誘惑、禁止、のぞき、肉体破損に独占、嫉妬、エトセトラ。今回はそれ以外に読み取れる要素を採り上げたい。
①異文化との遭遇
異文化そのものが強烈なエロティシズムを発散している。たとえば、かつて日本では外国人モデル・タレントの天国だった時代があった。遠い異文化に属する彼らは、日本人にとってきわめてエロチックな存在だった。白人(特に男性)の中にあるといわれる黒人に対する潜在恐怖も、これが形を変えたものだろう。ゴーギャンの憧れたタヒチの女性然り、いまだパワー衰えぬ「ゲイシャ」然り。エロティシズム=エキゾチズムの前では、美醜のパースペクティヴも無力化するのか、大きな勘違いとしか思えぬ異文化カップルもここロンドンではよく見かけるが、これはご愛嬌。
とは言え、たまたま遭遇したこの両者の間に、コミュニケーションの術がまったく無ければ話は別だ。誰も猿にエロティシズムを感じることはないはずだ。例外はあると思うが。ともかくベインズを白人と現地人との混血としたのはわかりやすい設定だった。顔の入墨もなかなかグッドである。
そもそも、たいていの社会が「男女」という異文化=差異を、その内部に長年にわたり保持してきたのも、エロティシズムという餌を絶やさぬようにして、子孫繁栄を願う人類の隠れた知恵かもしれない。
②「待つ」こと
夫はエイダに触れることを許されず、彼女の感情がほぐれるのをひたすら待つ。ベインズは、小屋でエイダが来るのを待つ。一方彼女もベインズの小屋に行くまではピアノを弾くことができず、悶々として暮らす。待つことの苦しみから一人自由なのは、まだ成熟していないエイダの娘だけだ。だから彼女は天使の羽を着けている。
「待つ」こと自体にエロティシズムが潜んでいることは、以前にもブルトン(だったと思う)の言葉を引いて挙げた。待つ行為に何か欲望を高めるメカニズムがあるのだろう。裸体になる相手を初めて見る瞬間の至福よ!全く人は「待つ」ために衣服を発明したのではないか。脱いでしまったあとは、なあんだ、なんてね。次回は「ピアノ・レッスン」における「緊縛と解放」。
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