「ピアノ・レッスン」は必ずしも恋愛を描いた映画ではない。「恋愛」とは少なくとも、ある程度文化的に洗練され様式化された、人間活動のひとつである。しかしここに描かれているのは、いわば「恋愛以前」とでも呼ぶべきような情念の噴出であり、そういう点でヒロインのエイダを19世紀スコットランド出身、相手のベインズを白人移民と現地人との混血、夫のスチュアートを移民の子孫というように設定したのは正解だったように思う。なぜなら彼らがまだ啓蒙以前、「野蛮」に近いところにいることが容易に想像されるからだ。全体的な味わいとしては、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」に似ていると感じたのは僕だけだろうか。
そういった恋愛の「原風景」を描いているだけに、映画はさまざまな形のエロティシズムを内包している。誘惑、禁止、のぞき、肉体破損に独占、嫉妬、エトセトラ。今回はそれ以外に読み取れる要素を採り上げたい。
①異文化との遭遇
異文化そのものが強烈なエロティシズムを発散している。たとえば、かつて日本では外国人モデル・タレントの天国だった時代があった。遠い異文化に属する彼らは、日本人にとってきわめてエロチックな存在だった。白人(特に男性)の中にあるといわれる黒人に対する潜在恐怖も、これが形を変えたものだろう。ゴーギャンの憧れたタヒチの女性然り、いまだパワー衰えぬ「ゲイシャ」然り。エロティシズム=エキゾチズムの前では、美醜のパースペクティヴも無力化するのか、大きな勘違いとしか思えぬ異文化カップルもここロンドンではよく見かけるが、これはご愛嬌。
とは言え、たまたま遭遇したこの両者の間に、コミュニケーションの術がまったく無ければ話は別だ。誰も猿にエロティシズムを感じることはないはずだ。例外はあると思うが。ともかくベインズを白人と現地人との混血としたのはわかりやすい設定だった。顔の入墨もなかなかグッドである。
そもそも、たいていの社会が「男女」という異文化=差異を、その内部に長年にわたり保持してきたのも、エロティシズムという餌を絶やさぬようにして、子孫繁栄を願う人類の隠れた知恵かもしれない。
②「待つ」こと
夫はエイダに触れることを許されず、彼女の感情がほぐれるのをひたすら待つ。ベインズは、小屋でエイダが来るのを待つ。一方彼女もベインズの小屋に行くまではピアノを弾くことができず、悶々として暮らす。待つことの苦しみから一人自由なのは、まだ成熟していないエイダの娘だけだ。だから彼女は天使の羽を着けている。
「待つ」こと自体にエロティシズムが潜んでいることは、以前にもブルトン(だったと思う)の言葉を引いて挙げた。待つ行為に何か欲望を高めるメカニズムがあるのだろう。裸体になる相手を初めて見る瞬間の至福よ!全く人は「待つ」ために衣服を発明したのではないか。脱いでしまったあとは、なあんだ、なんてね。次回は「ピアノ・レッスン」における「緊縛と解放」。
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