たとえば妙齢のミニスカートの女性が、地下鉄の階段を昇っていたとする。そして後に続く僕の目には、まっすぐ伸びた脚のつけ根を覆う白い布切れがちらちらと。おお何たる僥倖、僕は世界一の幸せ者だ。
ところが、公園のベンチに座っている僕の目の前で、まだあどけない九つかそこらの少女が、リスに餌をやろうとしゃがみこんだ、その瞬間、イチゴのプリントされた下着が目に飛び込んでくるやいなや、僕は目をそむけるに違いない。なぜだ?
無防備な状態にある存在を見るというエロティシズムは確かに成立する。のぞきがそうだし、盗撮もそうだ。だけど、成熟した肉体が対象のときよりも、そうでないときの方が、ドギマギ度が高いことを考えれば、実は高度のエロティシズムとは未成熟な肉体を通してこそ実現するのではないか、という仮定も成り立つ。
この理屈に対して、敢然とイエス、と言い切ったのはロシア生まれ、ケンブリッジで学んだのちアメリカに渡ったナボコフである。しかし、彼の「ロリータ」という作品、なかなか一筋縄ではいかない。
「ロリータ」を読んでいると、何というか、これが作家の力量なのだろう、主人公ハンバート・ハンバートとナボコフが同一視されてきて、この作家は本物の変態だ、となんだかぐったり疲れてしまうが、彼自身は「文学作品とは、美的悦楽を与えるものだ」というようなことを自作のあとがきに書いていて、極めて知的な創作(精神)活動の産物だったのだなと、どこかほっともさせられる。だけど怪物的作家であったことは間違いない。
「ロリータ」は、いわゆるロリコンの小説ではない。もちろん、「ロリータ・コンプレックス」という言葉はこの小説から造られたわけだけど、ハンバート・ハンバートをロリコンと形容するのは無理があると思う。僕にとって、ロリコンと呼んでも良さそうなのは、「不思議の国のアリス」で知られる作家ルイス・キャロルなんかで、生涯独身だったり、どこか閉塞的な私生活など、現代のオタク的ロリコン像と重なるところも多い。
あれ、まずいか、オタクなんて言葉。ひと括りにできないのだ。自分のファンタジーの中だけで、たとえばロリコンという虚構を虚構として楽しむ、という人たちが、現在のロリコンと呼ばれる人たちの圧倒的多数だろうから、つまりそういう意味で、ルイス・キャロルは現代的なのである。
ところが、ハンバートは違う。ファンタジーを実存的に生きようとした、いわば行動の人なのである。ファンタジーを突き抜けてしまっているわけで、その分、狂気に近い。紙面が尽きた。次回へ。
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