友達だったフレンチの小娘が言った。「欲望が無ければ、愛は成り立たないわ。」
名言だと思った。これだから、フランスという国は侮れない。奥が深い。「愛が無ければ、欲望は生まれない」ではないのだ。では逆に、「欲望があれば愛は成り立つか」というと、疑問のあるところだし、また「愛があれば欲望は生まれるか」といえば、微妙なところであろう。いずれにせよ、まず欲望ありき、である。
ブラム・ストーカーが創作し、その後名優クリストファー・リーなどの怪演によって広く知られるところとなった吸血鬼ドラキュラは、純粋欲望とも言うべき存在である。犠牲者ののどに毒牙を突き立てて、血を啜りたい、という欲望である。
吸血こうもりや蛭といった、吸血行為そのものが自己保存の手段である生物が現実に存在することを僕たちは知っていて、やはりおぞましいものとして認識するわけだが、それらとドラキュラを分かつのは、そこにエロティシズムがあるかないかだろう。エロティシズムとは、完全に人間のものだ。そういった点で、ドラキュラは極めて人間的である。
では、ドラキュラのエロティシズムとは、果たして何だろう。①人間の形をしたものが、人間の生血を啜るという背徳性 ②犠牲者をやがては死に追いやる、という生への反逆。と思いつくが、この二点、猟奇的ではあるが、必ずしもエロティックではない。僕は、③犠牲者-特に女性-が、いったん血を吸われるや、積極的にドラキュラを欲する誘惑者となること-が最重要だと思う。ドラキュラから、欲望が転移したのだ。
初めて作品が世に出た時代、女性は、自ら欲望する存在とはみなされていなかったはずだ。言い換えれば、欲望を持つことを禁じられていた女性が、犠牲者となると同時に次には誘惑者に変身する点が、当時の良俗に対する挑戦であり、またドラキュラのストーリーの持つエロティシズムであったに違いない。だから、女性も実は積極的に欲望する存在である、と広く認知された現代のような時代、このストーリーが、そのエロティシズムの光をいくぶんか失わざるを得ないのは当然のことだと思う。
やや古い映画になるが、コッポラ監督の描いたドラキュラが、失った妻をひたすら慕い続ける純愛ストーリーとなったのも無理はない。格調のある作品ではあったけれども、ドラキュラの本質は、むしろかつてハマー・フィルムなどが制作したB級C級映画にこそ、よりよく表現されていたと思う。
しかしながら、ドラキュラとその犠牲者の間には愛が成り立つのかなぁ。例の小娘に尋ねてみたいところだけれど。ところで、この娘とは「友達だった」と書いた。もちろん友達以上にはなれなかったからだし、そして今は友達ですらないからだ。
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