暴挙であった。
編集長にそそのかされて、「愛のかたち」について何かエッセイを書いてみませんか、なんて言われたとき、つい魔がさしたのだ。「フフフ、恋愛を語れ、とは、僕もまんざら捨てたものではないな」
そして考えた。愛のかたちを一生懸命に考えた。
えー、愛のかたちといえば、通常四十八くらいあるといいまして、そのうち僕は三つくらいしか知りませんが、いえ、知っていると言っても、それらが本当に正しいものかどうかも怪しいのですが、日本では、とにかく四十八です。でも、インドあたりでは、どうももっとたくさんあるような気がするのですが、気のせいでしょうか。
あるいは、69なんていう愛のかたちがあります。でもひょっとすると29なんていうのもあるかも知れない。88なんていうのも、なんだかいわくありげに見えてきました。そんなふうに考えてみると、十という漢数字もなんだか、異様な迫力がある。「三位一体」なんていう熟語もなんとも玄妙な味わいがあります・・・。愛は数字の数だけあるのです。
などという、くだらない考えばかりが、ぐるぐるー、ぐるぐるーと頭の中を駆け巡り、早くも発狂しそうである。
原稿を引き受けたのは、暴挙、あるいは愚挙と言うしかあるまい。
そもそも恋愛とは、何ぞや。
フロイトのように、人間を性衝動のポンプのように考え、その性衝動あるいはリビドーが、他者に転移したときに、恋愛感情が始まるとする見方。あるいは、人類が太古より積み重ねてきた性的経験の集積が、各個人の中に遺伝子のように組み込まれていて、それがたまたま他者の中に顕現したとき(アニマやアニムス)、恋愛感情が起こるという、ユング的な見方。バタイユなどは、細胞分裂から説き起こし、「全体性への憧憬」といったようなキーワードで、これを説明しようとする(性的恍惚感、すなわち全体性の獲得、である)。
僕自身の感じからいくと、実はバタイユに最も近い。というか、若い頃に読みすぎて影響されたのだろうが、ともかく。恋をしているときは、何か「失ったものを取り戻す」といったような熱情にいつも駆られているような気がする。
人はどんな風に恋をするのか、僕には分からないが、少なくとも、この「熱情」という部分では共通しているのではないか。パッションは非合理の世界に属する。
人間はこの窮屈な合理の世界を突き崩す非合理を、常に必要としている。ならば数字が支配するこの世界に生きるわれわれにとって、恋愛というのは、非合理な、何か大きな世界に通じる最後の砦なのかも知れない。打算的な結婚はあり得ても、打算的な恋というのは、こりゃ堕落だよね。と、まずは前置き。
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