7/29/2009

ヴィクトリア絵画

 イギリスに来て、良かったかなと思うことのひとつに、ラファエル前派に代表されるヴィクトリア絵画の再発見がある。
 随分以前に、日本のデパートで、かなり大がかりなラファエル前派の展覧会を見ている。が、そのときの僕は、ポロックなどに代表される抽象表現主義に共感していたので、その少女趣味的ともいえるテイストに、ぴんと来なかった。
 ロンドンに来て、無料が嬉しくって、テイト・ギャラリー(現テイト・ブリテン)にたびたび寄っていたのだが、そのうち自分の嗜好が変わっているのに気付き、びっくりした。
 ラファエル前派とその追随者たちは、もちろん風景、あるいは当時の社会問題などにも題材を採っているが、やはり聖書や神話・伝説などに霊感を得ている作品がより良く知られているだろう。一方、当時のヨーロッパでは、主題よりも、色彩や構図といった絵画の属性そのものが追究され、これが現代絵画の主流となっていく。絵画の「自律化」である。ヴィクトリア絵画は、絵画史の流れでいえば、傍流だ。文学的な要素にあまりにも寄り添い過ぎていることが、絵画の自律化に逆行しているからであろう。
 若い頃の僕は、そう考えていた。では一体、何が変わったのだろう。そうだ、僕自身が、何か大きな「物語」を要求し出していたのだ。あるいは「神話的世界」とつながることを欲していたのだ。そう思い至ったとき、ヴィクトリア絵画のアプローチというのは、きわめて重要なテーマを抱えていたのではないかと思えてきたのだった。
 切り口を変えよう。
 97年にロイヤル・アカデミーで開催されて大評判を採った「センセーション」展は、当時僕も大きな期待をもって見に行った。感想はがっかり、となるほど、のふたつ。がっかりの部分は飛ばそう。なるほど、と思ったのは、会場にBGMとして、かすかに教会音楽が流れていたからだ。並べられていた作品は、奇怪なもの、「穢れ」を象徴するもの、性的なもの、現代文明を象徴するかのような無機的なもの。しかし宗教音楽が流れていることから、無意識のうちに、これらの作品群を自分たちの生の代用品として、生贄に捧げるといった心理的メカニズムがそこでは働いていたと思う。カタルシスを覚えた観客もいただろう。
 大きな「物語」とつながる、とは、つまりそういうことだ。
 イギリスが世界一の工業国として君臨したこのヴィクトリア時代に、聖書やら、妖精やら、アーサー王たちのイメージが噴出してきたというのは興味深い。現代におけるコンピュータ・ゲームの流行も、同じ文脈で読み取れるのではないかな。
前置きが長くなったが、この時代の画家として、僕が最も気になるロセッティを次回に。


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